初めて食べようとしているハムステーキは少し焦げていた。黄身と白身の境目がなくなった目玉焼きは、もはや目玉焼きと呼ぶことを躊躇ってしまう。でも、ただ焼いただけのそれらはなぜかとてもおいしそうに見えた。理由は多分、人の家で食べるからでもあるし、先輩が焼いてくれたからでもある。
 さっき少し気まずくなるような会話をした後、先輩は無言でお茶碗にご飯を山盛りよそってくれた。更にほかほかのそれの上にハムステーキと目玉焼き――先輩が言い張るのでそう呼んでおく――を乗せて、醤油と塩をかけて丼みたいにしてくれた。
「俺んちの夕飯前の定番メニューやねん。単純なもんやけど、元気出るで」
 先輩はそっぽを向いて、遠慮がちにそれを差し出す。どうやら俺がなんだか弱っていると勘違いしたらしい。不器用に気遣ってくれる先輩は、やっぱり優しいのだ。
 同じ模様が描かれた丼に、色違いの箸とコップ。きっとこの家に遊びに来た人みんなにそうやって出しているのだろうけれど、折りたたみ式の小さな机に乗せられた二人分のそれらを見ていると胸の奥が暖かくなる。同じ種類の食器を使うだけで、ここに居ることを許されている気がした。
 ソファとテレビの間の広い空間に机を置いて二人、向かい合う。机が小さいから、胡座をかいていても足が当たりそうになるほど近い距離だ。なんだか落ち着かなかったが、先輩はなんでもないというふうに手を合わせていたから、俺も同じようにして呟く。
「いただきます」
「おう。いただきます」
 なんだかんだでお腹が空いていたから、遠慮なしに目玉焼きにかぶりつき、ご飯をかっこんだ。半熟派だからとろっとした黄身が好みだけれど、たまにこうして固まった黄身を食べるのもおいしい。醤油と塩の加減が絶妙で、薄すぎず濃すぎずご飯に良く合う。驚いたのは、ハムステーキを乗せたことでご飯に香ばしさが加わっているところだ。ただ洗い物を減らしたいための工夫かと思っていたけれど、確かにこれは丼にするのも一理ある、と妙に納得してしまった。
 食べたことのないハムステーキにもかぶりついてみたけれど、口に含んですぐに笑ってしまった。さっき先輩が言っていた「ベーコンとウインナーの中間みたいな味」というおかしな表現が腑に落ちたからだ。確かにどちらとも言い難いし、ハムの味は全くしない。
 うんうんと頷きながら口元を緩ませていると、先輩が不思議そうな顔をして尋ねた。
「何ニヤついとんねん。お前大丈夫か」
「だってほんまにベーコンとウインナーの中間みたいな感じやったから、なんかおもろくて」
「やろ? わかるやろ? 足して二で割った感じするやろ?」
「確かにあのへんの部類とおんなじ味する」
 賛同者が現れたのがよほど嬉しかったらしく、先輩はもぐもぐ口を動かしながら満面の笑みを浮かべていた。いつも格好いいと思っている先輩の少し子供っぽい一面を目の当たりにして、安心するような嬉しいような、胸の奥がくすぐったい気持ちになる。
 その瞬間、キッチンで俺を見上げていた先輩の唖然とした表情を思い出し、くすぐったさはちくちくした痛みに変わった。ちらりと目の前を見ると、嬉しそうにご飯をかっこむ先輩の姿がある。
 逃げ場がないと思ったし、叫び出したくもなった。けれどその衝動を押し殺すように、俺も必死にご飯をかっこんだ。しばらくは二人勢い良くご飯を頬張って無言の時間が続き、部屋には丼と箸がぶつかる冷たい音だけが響いた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「めっちゃ簡単なもんで悪かったけどな」
 手を合わせながら先輩がへらりと俺に笑いかける。俺もつられて僅かに笑みをこぼす。ご飯を食べている間ずっと胸の中にあった小さな爆弾は、いつの間にか消えてしまったようだ。だから俺は一歩踏み出すことにしたのだ。
 嬉しかった出来事を子供が親に報告するような期待に満ちた声で、しかし独り言でもかまわない言葉を友人に投げかけるような不安な顔で、俺は先輩を呼んだ。
「先輩、あんな」
 心は不思議と落ち着いているのは、俺が何を言っても先輩が拒むことはないとわかっているから。ごめんなさい、これが最後でもいい、先輩の優しさを俺に貸して。心の中で一人静かに懺悔した。
 言いたいことの整理はまだつかなかったけれど、正直でいるならそのままでもいいかと思って、俺はぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「俺、ずっと先輩に憧れとった。先輩は自分の芯とかこだわりって部分をちゃんと持っとる人やから、大多数が賛成って言っとることでも、先輩は自分がほんまに違うって思ったら反対って言える。損得とか人の意見に流されへん、自分のものさしで物事を図れる。いっつもふわふわしとる俺は、先輩のそういうとこほんまにかっこええなと思っとるんです」
 先輩は黙って俺の言うことを聞いていてくれたけれど、途中から恥ずかしくなってきたようで、口をへの字に曲げて目を逸らしていた。頑張ってるから認められたいと思っているけれど、いざ認めて褒められると照れてしまう、先輩はそんな人だ。つくづく愛嬌のある人だと思う。
「尊敬しとるし、先輩みたいにいつかなれたら、って思う。でも最近、そういうのだけちゃうんやろなあって気付いて、どうしたらええかなあって思っとったんです。いっつもなんかあったらすぐ先輩に相談してまうけど、それやったらあかんと思って、隠しとこって決めたんやけど……」
 そこまで話して、俺は言葉に詰まった。
 喉から出掛かっては引っ込んでしまう言葉を待ち続けて視線を落とした。沈黙が苦しくて、俯いて指を組む。やけに部屋に響く秒針の音を聞きながら、どこまで話すべきかと線引きを繰り返す。今更押し寄せてくる恐怖感と戦うために手を握る。確かに目の前にいるのに、視界のどこにも先輩の姿がないことが余計不安を煽った。けれど後ろめたくて直視出来ない。
 その時、俯いていた俺の視界に突然にゅっと先輩の手が現れた。先輩は空っぽになっていた自分と俺のコップ二つを掴むと、お茶のおかわりを注ぐためにキッチンへ向かう。またリビングのドアを開けっ放しにしたまま、一人部屋に残された俺に、
「雨、やんだなぁ」
 と、なんとなしに言葉を投げかけた。確かに耳をすましても雨音が聞こえない。はい、と小さく返事をして待っていると、先輩がコップになみなみと麦茶を入れて戻ってきた。おまけに氷まで入っている。今日は雨が降ってたからそこまで暑くないんだけど、と思いつつお礼を言ってそれを受け取っる。知らない間に俺の手はかなり汗ばんでいたようで、コップの冷たさがひんやりと沁みるようだった。
 先輩はまた俺の向かい側に座るや否や、麦茶をなぜか勢いよく一気飲みし始めた。コップの中身が減っていくにつれて先輩の視線が天井に向かう。首がさらけ出され、ごくごくと気持ちいい音と共に嚥下している様子がよくわかる。俺はなぜか彼から目が離せなかったけれど、そうしている間にも俺の手の熱でぬるくなっていったコップからは水滴が流れ落ちた。ぽたりと俺のズボンに染みを作った時、先輩は麦茶を飲み干し、派手な音を立ててコップを机に叩きつけた。
「あんな、三木」
 先輩はいつになく真剣な顔をして話し始めた。
「お前が強くなりたい思って俺に話すのをやめたんやったら、無理に話せとは言わん。一人で乗り越えなあかんことなんてこれから先いっぱい出てくるやろし、一人で悩むんも大事やろ。まあ、どこまで相談してどこまで抱え込むかって線引きは難しいよな。……けど、」
 目を逸らせない。まばたきをするのも惜しいと思ってしまう。先輩の表情がだんだん憂いを帯びて、本当に俺を心配してくれているのだと痛いほどによくわかったからだ。
「お前が俺のことを気遣って話すんやめただけなんやったら、今すぐ話せ。俺のことなんか気にすんな。俺は別に強い人間でも出来た人間でもないけど、お前一人の悩みを一緒に抱えたれるくらいには、弱い人間ちゃうぞ」
 とんでもない人だ、と思った。
「先輩そんなん、反則やろ……」
 俺は情けない声でそう言って、俯きながらにやけそうになる口元を慌てて手で覆った。嬉しさと同時に切なさが込み上げてきて目が潤む。笑いと涙を堪える俺の顔はきっとくしゃくしゃになっているんだろう。
 必死に何かを言おうとした。先輩はお人好しすぎるとか、そんなことを言われたら自惚れてしまうとか、心配かけてごめんなさいとか、伝えたいことは色々ある。それなのにまるで首を絞められたように喉が苦しくて、口を開いても思うように言葉が出てこない。声の出し方を忘れてしまったのかと怖くなるほどだ。
 嬉しいのに苦しい。鼻に響くつんとした痛みを感じて、このままでは本当に泣いてしまうと思った俺は、深く息を吸い込んで口を開く。
「俺がさっき『好き』言うとったんは、そういうとこですよ、先輩」
 一度言葉を出してみれば、腹の底から色々な想いがこみ上げて堪らなくなってきた。唖然としている先輩から逃げるように俯いて目を閉じれば、まぶたの裏側に先輩との思い出が走馬灯のように浮かんでくる。
 楽しくて優しくて嬉しくて、でも、それだけじゃなかった。
「俺、先輩のこと、大好きやなあ」
 抑えていた想いはついに溢れて、涙と一緒にこぼれ落ちた。あんなに伝えたくてたまらなかった言葉は、今では俺をただ悲しくさせるだけの鋭い凶器のようだ。
 顔を上げて目を開けると、ぼやけた視界の中に困った顔をした先輩の姿が見える。男の俺に好きって言われた上に突然泣き出したのだから、先輩にとっては迷惑だろう。でも溢れてくるものを止められない。泣いてしまった、と自覚すれば更に我慢がきかなくなった。
 先輩も必死に何かを言おうとしていた。鈍感な彼でも、流石に今回は俺の「好き」がどういう類なのかわかったのだろう。複雑そうな顔をしている。
 俺は涙で濡れた目をこすりながら、ごめんなさい、と言おうとしたが、それは先輩の弱々しい言葉でかき消された。
「……好き、とか、そんな誰にでも言うもんちゃうぞ」
 かあ、と全身が熱を持ったのがわかった。今まで止めどなく溢れていた涙が急に止まる。
 先輩が混乱していることなんてわかっている。それ以外に何を言っていいのかわからないという顔をしていることもよくわかる。ましてや俺は「理解してほしい」なんて図々しいことを先輩に言うつもりはない。
 でもここで引き下がってしまったらこれから先ずっと嘘をつきつづけることになりそうな気がして、俺は眉間に皺を寄せながら反論した。
「誰にでも言うてないもん。先輩だけにしか、言ってないもん」
「そ、れは……」
 俺にはようわからんけど、と先輩は口ごもった。とうとう俺は意地になってしまって、だだをこねる子供のように繰り返す。
「先輩好き、大好き」
 口に出すことが出来たらどんなに楽だろうかと、ずっと考えていた。俺の中だけにある枷のようなものから少しは解放されると信じていた。
「好きです、ほんまに……」
 それなのに、口に出すたび言葉は強い力を持って俺の心を縛る。幸せなはずの言葉は罪悪感しかもたらさず、正直になるということがどれほど辛いことなのかを俺に突きつけた。
 また涙が溢れてくる。俺っていつからこんなに生きづらい人間になってしまったんだろうか、と。
 先輩を見つめる日々は楽しくて、一緒にいられるだけで幸せで、諦められないもしもを期待しては困ったように笑って、けれど決して多くを望まない「賢い後輩」だったのに。
 いつからこんなに欲張りになったんだろう。
 また先輩に迷惑をかけてしまった。先輩は何も悪くないのに、困らせて、嫌な気持ちにさせた。そう思って一人自責の念にかられていると、先輩が突然勢いよく頭を下げたから驚いた。いつも通りつむじからぴんと伸びた髪の毛がよく見える。
「三木、ごめん」
 俺はその謝罪の意味がこれっぽっちもわからなかった。
「なんで、先輩が謝るん?」
「無神経なこと言うた。お前は冗談でそんなこと言う奴ちゃうってわかっとったけど、なんて言えばええかわからんかった。……ごめん」
「そんなん、全部俺が悪いのに……ずっと俺が、先輩困らしとるだけやのに……ごめんなさい」
「いや、受け止めるって言うたのにびびった俺が悪かった」
「そんなん、内容知らんかったんやからしゃーないやん……俺がぽんぽん勝手に言うたから悪いんやん」
 頭を下げて謝る先輩に、首をぶんぶん振って謝る俺。謝罪に夢中でいつのまにか涙は止まっていた。
 それからしばらくの沈黙のあと、先輩は「謝ってばっかやな、俺ら」と苦笑する。疲れたようなため息をついた彼の顔を覗き込みながら、俺は恐る恐る、
「先輩、もう嫌になった……?」
 とだけ聞いた。鈍い先輩はやっぱり、主語をちゃんと言わないとなんのことについてかいまいち理解出来てないようだったけれど、それでもはっきり首を振ってくれた。
「いやまあ、正直困ったけど。俺あんまりそうやって人に……言われたことないから、慣れてへんし。お前なぜか急に泣き出すし。でもあんだけ真剣に言われたら、蔑ろにしようなんて思われへんで、普通」
 いつも良く見る、ふてくされたような照れ顔。それを見るとなぜか俺は心が落ち着いた。
「先輩って、変なひと」
 呆然としながら思わずそうぽつりと呟くと、先輩は安心したように笑ってから、取り繕ったようにわざと腹を立てたふりをして、
「変なひととはなんやねん、失礼やなあ! 俺は先輩やぞ!」
 と優しく机を叩いた。先輩は、本気で怒ったことなんて今まで一度もないし、怒ったふりすらも全然出来ない優しいひとだ。彼はその優しさが、あくまで先輩が後輩に向けてのものだと思っているようだけど、今まで様々な場所で「先輩」という人達と接してきた俺にとってそれは、明らかに先輩後輩の関係を超えたものだと感じることがよくある。今もそうだ。
 先輩は、無意識的に俺に優しい人だ。おまけに自分に正直で、揺らぐことのない信念のようなものを持っていて、でも決して自分を大きく見せようとしない、俺の憧れの人だ。
 俺は先輩を好きになって良かったよ、と、言おうとしたけど飲み込んだ。また泣いてしまいそうな気がしたから。
 机の上で、俺が飲まずに放置していた麦茶はすっかりぬるくなり、コップの周りは水滴でいっぱいになってしまっていた。先輩は、俺と自分のコップを二つまとめて回収して立ち上がり、キッチンの方に持って行こうとして足を止めた。
 いつもと視線の角度が逆だ。先輩が俺を見下ろして、俺が先輩を見上げる。
「今日はなんか、お前の知らん一面が見れて嬉しかった。お前も感情的になったりすることがあるんやな」
 それだけ言い残すと、先輩はキッチンに消えた。冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注いでいる音がする。まだ飲むのか、と思いながら俺は先輩の言葉を頭の中で反芻する。もやもや胸の中に溜まっていたものがすとん、と腹の底に落ちた気がしたのは、俺の今日の行動が「正直になること」だと気付いたから。
 自分に嘘をつくよりも、先輩に嘘をつくほうがよっぽど苦しかったんだと、気付いてしまったから。

 今日は運が良かった。
 初めてちゃんとお邪魔した先輩の家は、自分の家みたいに居心地が良い。初めて食べたハムステーキというものもおいしかった。そして俺が泣き出した挙げ句、自分の気持ちを吐露してしまったのに、先輩は俺を追い出したりしなかった。嫌いになるどころか、「嬉しかった」と言ってくれた。
 これらすべてを運で片付けるつもりはもちろんないけど、そういうことにしておかないと俺はもっと先輩に甘えてしまう。好意を蔑ろにされないということは、自分を許してもらえた何よりの証明のように思えたから。
「三木ー、お前ちょっと今から晩飯の買い出し付き合え。冷蔵庫ん中ほんまにすっからかんになってもた」
 キッチンからリビングに戻ってきた先輩のいつも通りの態度に、酷く安心感を覚える。俺は泣き腫らした目をこすりながら「いいですよー」と答える。
 いつもと何も変わらない、先輩後輩のやりとり。俺が先輩に言ったことも、先輩が俺の言葉を聞いたことも確かな事実ではあるけど、今すぐに何かが変わるわけじゃない些細な出来事。
 でも俺はきっとこの日のことを、どんな一日よりも色濃く覚えているだろう。伝えたい言葉を口に出したくてたまらなくて、けれど口に出すたび自分の心を抉るような、思い通りにならない自分自身のことをきっと忘れない。心配そうに俺を見る先輩の真剣な目も力強い言葉も、きっと忘れない。
 俺は買い物に付き合ってからそのまま帰宅するつもりで、自分の荷物をすべて持って先輩の家を出た。外はまだ少しだけ明るく、雨のにおいを残している。先輩は折りたたみのエコバッグとボディバッグだけ持って軽い足取りで外に出てきた。
「忘れもんないか?」
「はい、大丈夫です。お邪魔しました」
 先輩は軽く頷くと、バタンと玄関のドアを閉めて鍵をかける。その動作はまるで、今日の出来事を部屋に閉じ込めて蓋をしているかのように見えた。

BGM:ゆれて/GOOD ON THE REEL

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