その日は運が悪かった。
 思いのほか人が集まらずサークルは中止。暇になったから大学の図書館にでも入り浸ろうかと思ったら、整理中のため休館中。行き場がなくなったから先輩と飯でもという話になった途端、土砂降りの雨に見舞われて、店に入れるような状態ではなくなってしまった。
 そんな感じでとことん運が悪かったけれど、先輩と二人でしばらく走って、とりあえず彼の家で雨宿りさせてもらうことにした。どうせあともう少し走れば俺の家だったけれど、その日はなんとなく、まっすぐ家に帰りたくない気分だったから。先輩の部屋が見てみたい気持ちも多少あったし、とにかく暇つぶしという感じだった。
 小さな二階建てアパートの一階の一番右の部屋が、佐久間先輩の住んでいる所だ。酒で酔いつぶれた彼を何度もここに送って来たから、いい加減覚えてしまっている。
「くそ、雨やなんて、天気予報では一言も言うてなかったやんけ」
 先輩はばつが悪そうにつぶやきながら、びしょびしょのリュックの前ポケットから鍵を取り出した。雨で滑るのか、何度か落としそうになりながらもようやく鍵穴に差し込んで、乱暴に扉を開ける。
「しょうがないですよ、梅雨ですから。……お邪魔します」
「タオル取ってくる。あ、靴下もうそこで脱いでまえな」
「そうですね」
 玄関に入って扉を閉めると、雨の音が一気に小さくなる。当たり前だけど家の中はとても静かで、そして少しじめじめしている。靴下もリュックも放り投げ、慌てて脱衣場に消えた先輩を待つ間、俺は狭い玄関で靴と靴下を脱いだ。カバンの中からまだ濡れていないハンドタオルを取り出し、とりあえず足だけ拭いて廊下に上がった。
 いつも先輩を抱えて来た時は靴も脱がずすぐに帰る。だからよく考えてみれば、俺が先輩の家にちゃんと上がるのは今日が初めてだった。
「おい、何ぼーっとしとんねん。はよカバンから中身出さんと、スケブとかすぐ濡れてまうぞ。ほらタオル」
「あ、ほんまや。ありがとうございます」
 戻って来た先輩が差し出してくれたタオルを受け取って、二人してカバンの中身を全部廊下に出すという、なんともみっともない状況。幸いスケッチブックは無事で、とりあえず俺は一安心。先輩もカメラの無事を確認して安堵のため息をついていた。
 一通り持ち物の確認をしてタオルで髪を拭いていると、先輩が突然、
「三木、シャワー浴びるか?」
 と言い出したので、俺は一瞬動きが止まる。普通にこのまま帰ろうとしていたから「なんで」と間抜けな返事をしたら、呆れられた。
「なんでって、びしょびしょやからやん。お前ん家こっから近いらしいけど、どうせ傘もないんやし、ちょっと間ここで雨宿りしてったらええねん」
「えっと、ええんですか」
「靴下まで脱いでカバンの中身も全部出しといて何を言うとんねん」
「そう……ですかね? ほんまにええんですか」
「そのまま帰らすんは、こっちも居心地悪いわ」
 先輩はふてくされるようにそう言ったが、全ては俺に気を遣わせないためだということはよくわかっている。この人は優しい人なのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「バスタオルそこに置いとるから。脱いだもんはそのカゴの中に入れとけな」
「はい」
 気の進まない俺を脱衣場に押し込み、早口で説明すると先輩はさっさと出て行ってしまった。開けっ放しになった風呂場の前に俺は一人立ち尽くす。
 左を向くと洗面台と洗濯機があって、右を向くとバスタオルが入ったカゴが置いてあって、なんというか、広い。一人暮らしの友人の家に行ったことは数えるほどしかないけれど、こんな風に脱衣場がある家はなかったし、洗濯機だって大体廊下に置いてあった。
(先輩ってお金持ちなんかな?)
 ふとそう思ったが、人の家をじろじろ見るのは悪いと一人かぶりを振る。とりあえず何も考えずに素早くシャワーを浴びることに専念しようと、俺は勢い良くTシャツを脱いだ。

「先輩ー、俺の上の服知らん……?」
 シャワーを浴びた後、びしょびしょのままカゴに入れたのになぜか乾いていたズボンだけ履いて、リビングのドアをほんの少し開けて尋ねる。上半身裸とはいえ別に女の子じゃあるまいし、見られてどうこうなるわけではないのだけれど、少し気まずい。
 ドアを開けた隙間から首だけ突っ込んで部屋を見渡すと、奥でソファーに腰掛けて俺のTシャツをひらひらさせている先輩と目が合った。それです、と言いながら部屋に入ると、
「なんやお前、腹もちゃんと引き締まっとるなあ。スタイル抜群か」
 と吐き捨てるように言われた。先輩はよく俺の身長とかを羨ましがるけれど、こればっかりはどうにも出来ない。
 何を言っても逆効果になりそうなので、俺はあからさまに話を逸らした。
「いや……ていうかそれ、俺の服なんで先輩が?」
「なんでって乾かしよったんやんか」
「え、ありがとうございます……もしかしてこのズボンも? でも別によかったのに。濡れたままでも」
「アホ。それやったらシャワー浴びた意味なくなるやろ。何か俺の服でも貸せたらよかったけど、お前も気ぃ遣うやろし。それとも洗濯したほうがええか? その間着るもんないけど」
「いやいいです、大丈夫です、ありがとうございます」
 俺がそう言うと、先輩は仕上げにドライヤーを使ってTシャツを乾かしてくれた。待っている間立っているのも気まずいので、先輩の隣にそっと腰を降ろす。二人座っても広々としているソファはふかふかで、身体から力が抜けていくのがわかった。
 暇なので、不快に思われない程度に部屋の中を見渡してみる。彼の性格がよく反映された、片付いていて物が少ない部屋だ。唯一散らかっているのは、作業用であろうデスクの上くらい。紙の束に埋もれそうになっているデスクトップパソコンの横には、先輩が撮ったと思しき写真が隙間なく貼られた大きなコルクボードが立てかけられていた。
 しかし一段と目を引いたのは、数歩先にある大画面の液晶テレビだ。俺の家のリビングに置いてある、家族みんなで観るような大きさと同じくらいだろうか。ソファとテレビの間もかなり広々としていて、二つを遮るものが何もない。なんというか、やっぱり一人暮らしっぽくない所が多い。
「なんか面白いもんあるか?」
 突然先輩が何の感情も込めずにそう言いながら、すっかり乾いた俺のTシャツを差し出してくれた。別に皮肉った言い方ではなかったから、受け取ったそれを着てから素直に尋ねてみる。
「先輩ってお金持ちなんですか?」
「は? そんなわけないやろ」
「だってソファといいテレビといい、明らかに一人用って感じの大きさちゃいますよ。このソファとかめっちゃふかふかで高そうやし。あとなんか先輩の家全体的に広い感じする」
「あー……ずるい話やけど俺の伯父さんが不動産屋やっとって、それでちょっと安く貸してもらっとる。ソファはアウトレットやから安かったで。テレビは最初小さいの買ったけど、実家のでかいやつと交換してきた」
「なんでテレビそんな大きいのがええんですか?」
 そう聞くと、先輩は口をへの字に曲げて頭をかいた。ああ、ちょっと恥ずかしがってるな、ってことがわかる程度には、彼は考えていることが顔によく出る。そういうところが、表裏がなさそうで少し憧れてしまう。そして何より見ていて飽きないのだ。
 少しの沈黙の後、先輩がぼそぼそと呟く。
「なんていうか、おもろい映像つくるためにはまずアイデアとか知識の引き出しを増やさなあかんと思って……映画とかドラマとか結構見とるんやけど。見るからには、大きい画面でじっくり綺麗に、ええ音で鑑賞したくて、そこは妥協出来んくて……無理言って実家のと換えてもらってん」
「なるほど。で、なんで恥ずかしがっとるんです?」
「俺はろくに引き出しない、って宣言すんのとおんなじやからに決まっとるやろ。特に何もしてないけどおもろいもん出来ました、って格好付けたいんや、後輩の前でくらいな」
「いや、俺は……」
「俺もシャワー浴びて着替えてくる。好きにくつろいどってええからな」
 先輩はそう言って俺の言葉を遮るように立ち上がると、さっさと部屋を出て行ってしまった。一人になった途端、窓の外から聞こえる雨音が大きくなった気がした。
 俺がシャワーを浴びている間に先輩が移動させてくれたスケッチブックを、床から拾い上げてぱらぱらとめくる。猫のスケッチや風景画、電車に乗っている人をこっそりメモした落書きなど、大体同じようなものが並んでいる。好きなものばかり描いてしまう。描いていて楽しいものばかり描いてしまう。当たり前のことだ。
 ふと、引き出し、という先輩の言葉が胸につっかえる。しかしさっきの先輩の自信がなさそうな声を思い出して、目を細める。
「俺は先輩のそういう、色々こだわり持ってやっとるとこが格好よくて好きやねんけどなぁ」
 いつの日かこっそり描いた、先輩の後ろ姿のスケッチを見ながらしみじみとそう呟いた。

 学校では仲が良くて一緒にいても、家に行くと会話が続かなくて気まずい友達というのは、やっぱり少なからずいる。その友達が好きとか嫌いとかそういう話ではなく、相手を放っておけるか、俺を放っておいてくれるかという基準が、俺の中では結構重要だったからだ。そうなると、人の家にお邪魔している身でこんなことを考えるのは本当に失礼だけど、基準を十分に満たしたのは高校の時からの友達一人だけだった。
 だから基本誰かの家に行くと、自分の家で当たり前にやっているような、落ち着いて絵を描いたり本を読んだりということが出来なくなる。一言で言うと窮屈という感じ。
 そんな俺がまさか、初めて来た先輩の家でめちゃくちゃくつろいで絵を描いているのだから、自分でも驚いている。
「三木ー、お前お茶とコーヒーどっちがええ?」
「あ、お茶でお願いしますー」
「わかったー」
 シャワーを浴び終わった先輩は髪を乾かすや否や、リビングを出てすぐ横にあるキッチンで何やらごそごそし始めた。飲み物を用意しているだけかと思いきや、ジュージューと何かを焼く音が聞こえてきて少し驚く。おまけにコツコツ卵を割る音までして、晩御飯の準備でもしているのだろうかと気になってきた。
 リビングのドアは開けっ放しだから、先輩がキッチンと冷蔵庫を行ったり来たりする様子がよく見える。その姿を俺がぼーっと眺めても、先輩は気付いているのかいないのか、こちらを横目で見ることもない。俺が居ることなんてお構いなしに何かを作っている。
 確かに同じ空間にいるけれど、お互い自由なこの感じが、俺はたまらなく心地いい。その上、新しく見つけたその心地いい場所が佐久間先輩の家なのだから、俺はもうどうしようもなく嬉しかった。梅雨に感謝しながら、一人で密かに笑みをこぼす。
 浮かれた俺は、描きかけの絵を放ってキッチンの様子を見に行った。ようやく俺の視線に気付いた先輩がこちらを見る。
「なんやお前、持ってくから座っとけや」
「いやええ音しとるから気になって。なんか作っとるんですか? 晩御飯?」
「そんな大層なもんちゃうぞ、目玉焼きとハムステーキだけや。ちょっと腹ごしらえっていうか、冷蔵庫にこれしかなかったんやけど。あ、お前の分もあるで」
 先輩の手元を覗き込むと、大きいフライパンに目玉焼きと、ハムの形をしたベーコンみたいなものが二つずつ焼かれていた。なんにも言っていないし聞かれてもないけれど、ちゃんと俺の分も作ってくれているところがいかにも先輩らしい。
「ハムステーキって見るのも食べるのも初めてなんですけど、ハムなんですか? ベーコンなんですか?」
「はあ?! マジか?! ハムステーキ知らんってお前人生損しとるぞ!」
「えっそんな言う……? おいしいんですか?」
「俺は好きやで。ベーコンとウインナーの中間みたいな味するって言えばええんかな」
「なにそれ、ようわからんなあ」
 何気ない会話をしながら、先輩はフライ返しでハムステーキをひっくり返す。そのあと、目玉焼きは半熟派かと聞かれたから、なんとなく「先輩と同じのんにしてください」と言ったら、なんと目玉焼きも勢い良くひっくり返してしまった。まさかの行動に俺が声を上げて笑うと、先輩は本気で何がおかしいのかわからないらしく、目を丸くして俺を見上げる。
「俺、先輩のそういうとこ好きやな」
 自然と心の声が漏れていた。口に出した直後は俺も目を瞠ったけれど、今までそういうことを面と向かって言えたことがなかったから、妙にすっきりした気持ちだった。まずいことを口走ってしまったという焦りもない。なぜなら、こんなに直接的な言葉を使っても、鈍感で優しい先輩は言葉の表しか見ないだろうから。
「め、目玉焼きひっくり返すとこが?」
 やっぱり気付いてない。俺はいつだって先輩のこういう性格に甘えてきた。
「そうかも」
 俺はごまかしにもならないことを言って静かに微笑みかけたけれど、先輩はわけがわからないようで、きょとんとしている。きっとまたいつものように「変なやつ」としか思ってないんだろう。
 何も気付いていない様子を見ていると、胸がちくちく痛む。先輩の純粋な性格を利用して、自分の気持ちを吐露して楽になろうとしていること。正直者の彼にたくさんの嘘をついていること。そしてあわよくば、先輩が俺の気持ちに気付いてくれないだろうかと、卑怯な期待を抱いていること。でもこの苦しさの原因は、そんな罪悪感だけじゃない。
「……ごめん先輩、嘘ついた。そうじゃないねん」
「うん?」
 俺も先輩のように、自分に正直に生きてみたい。今すぐには無理だとしても、せめて、
「先輩の前では正直で居りたいねん」

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