二人が旅籠に着いたのは、とうに終業時間を過ぎた戌の刻(夜八時)だった。
 一刻(約二時間)ほど、山道を休みなしに歩いていたが、それぞれ一味で仕事をこなしているだけあって、二人とも息が上がることはなかった。特に史郎などは、日頃から頻繁に五里(約二十キロメートル)離れた縄張りとここを往復しているから、慣れたものである。
「着いた。ここだ」
 そう言って史郎が指差した先にあったのは、店先行灯もなく、看板もない、暗く近付き難い一軒の家屋だった。
 九郎兵衛は気怠げな声で史郎に言う。
「おめえを疑うわけじゃねえが、あれは本当に旅籠なのか? 真っ暗だし何だか不気味だぜ」
「まあ、そう思われても仕方ねえよな。おれも初めて来た時はそう思ったよ」
 外から見てもそれなりに広いことはわかるが、旅籠どころか人が住んでいるのかさえ怪しい雰囲気ではある。空き家と勘違いされても仕方がない。
 何か出そうだ、と近付くのを躊躇う九郎兵衛を横目に、史郎は障子に手をかける。この障子はいつも立て付けが悪いために開けるのも一苦労で、思いっきり力を込めないと開かない。
 がたがたと音を響かせ、やっとのことで史郎は土間に入った。九郎兵衛はまだ外から懐疑的な目を向けている。
(やはり警戒心の塊だな)
 と史郎は心の中で呟いてから、座敷に向かって言う。
「おい、お雪いないのか。おれだ、史郎だ」
 返事がないのもいつものことで、史郎は広敷にどかりと腰を下ろして編笠を外す。草鞋の紐に手をかけたところで、九郎兵衛が恐る恐る近付いて来て店先を覗き込んだ。同時に奥から小さな足音が聞こえてくる。その音にさえ九郎兵衛はびくりと肩をすくませていた。
 音がする方へ目を向けると、ゆらゆらと蝋燭の火がこちらに向かってくる。火は史郎の六尺ほど手前で止まり、ふっと下に落ちた。闇に埋れていた角行灯に火が点いて辺りが明るくなり、蝋燭を持った少女の姿が浮かび上がる。史郎のすぐ近くにあった二つ目のそれにも火を点けたことで、ようやく九郎兵衛にもはっきりとその姿が見えたようだ。彼が言葉を発する間もなく、少女はその場に燭台を置き、二人の前に跪いて深々と頭を下げた。
 史郎が静かに頭を撫でてやると、少女はゆっくりと上体を起こして言う。
「いらっしゃいませ。史郎さま、またお会いできて嬉しゅう御座います。本日はお連れ様がいらっしゃるのですね」
 幼いながらしっかりとした物言いと所作に、九郎兵衛は呆然と立ち尽くしている。
「久しぶりだな、お雪。元気そうで何よりだ。あいつはおれの友人で、九郎兵衛だ。心配することはねえよ」
「おい、看板娘っておめえ、まだ子供じゃねえか」
 史郎に紹介されて中に入って来たは良いものの、目の前の少女に見入っている九郎兵衛はようやく先ほどの史郎の言葉を理解したようで、戸惑いながら史郎に言った。
「年下だし、気が利くし、器量良しなことに変わりはねえだろ?」
 予想通りの反応を見せたのがおかしくて声を上げて笑うと、じろりと睨まれた。しかしすぐに九郎兵衛の視線は真っ直ぐお雪に注がれる。幾度か首を傾げながら、なんだかなあ、と呟いていた。いくら相手が子供とは言え少し失礼である。
「九郎兵衛、いい加減編笠を取れよ」
「……」
 史郎の言葉にも耳を貸そうとしない。九郎兵衛に、穴が空くほど見られているお雪の表情は一瞬強張ったが、二人は店先で対峙したまま動かない。
 お雪が人見知りであることを知っている史郎が見兼ねて助け船を出そうとしたのだが、彼女は九郎兵衛に対して何事もなかったように頭を下げて、
「はじめまして、お雪です」
 と挨拶した。奉公人としての仕事を必死に果たそうとしているのか、暫く見ないうちに彼女が成長したのか、どちらにせよお雪の対応は子供ながらに立派であった。
 けれども九郎兵衛が顔を近付けたため流石に少し怖くなったようで、とうとう史郎の影に隠れてしまった。私何かしましたか、と史郎の着物の袖を引っ張るお雪は、まだ視線だけは九郎兵衛から逸らさないでいる。
「じろじろ見るのもよしてやれよ。子供だからがっかりしてんのかもしれねえが、お雪が怯えちまってんじゃねえか」
 史郎がとうとう怪訝な顔で九郎兵衛に諭したことで、彼はようやくお雪から視線を外した。史郎の隣に腰を下ろして何やらぶつぶつ言いながら、編笠と草鞋を脱いでいる。
「お、怯えてなどいません。それにもう子供じゃありません。ただ、この旅籠に御主人のお知り合い以外の方がいらっしゃるのは珍しいので」
「ああ、そうだな」
 むきになるお雪の頭を撫でると、彼女は恥ずかしそうに史郎から離れた。また子供っぽい扱いをされたのが嫌だったのか、九郎兵衛がいる手前で恥ずかしいのか、史郎にはよくわからない。しかしそれは特に深く考えずにさっさと草鞋を脱いで土間に上がり、屈んでお雪と目線を合わせた。
「また一段と愛らしくなったな」
 なんて言いながらお雪を抱き寄せる。一瞬でお雪の顔が真っ赤になり、急いで史郎から離れると今度は九郎兵衛の影に隠れてしまった。史郎は声を上げて笑っている。まだ幼い彼女をからかって遊んでいるのである。
 一方、九郎兵衛は目を丸くしながら振り向き、お雪に尋ねた。
「なあ、おめえ今いくつだ?」
「え? えっと、十一でございます」
「十一……おめえ、まさか」
 子供にまで手を出してるんじゃないか、と言いたげな顔である。史郎は呆れながら首を振った。自分は年上が好みだと先にも言ったはずである。むしろ、年下が好みと言っていた九郎兵衛が間違ってこれからお雪に手を出さないか心配だ。茜屋の常連である史郎にとってお雪は妹のような存在であるから、いくら九郎兵衛であろうと手は出させまいと思っているし、万が一そんなことが起こればここの主人だって黙ってはいない。しかしそんな史郎の気も知らずに九郎兵衛は、
「それにしても、幼いうちから奉公人とはなあ。立派なもんだぜ」
 と感心し一人頷いていた。
「史郎は女落とすのが特技みてえな奴だから。色々悪かったな」
「女たらしみてえな言い方やめろ。大体お雪を一番怖がらせてんのはおめえだよ。変なこと考えてんじゃねえだろうな」
「変なことって何だよ。……おめえ、お雪、って言ったか。おれは九郎兵衛だ。よろしくな」
「よろしくお願いします、九郎兵衛さま」
 九郎兵衛の力の抜けた笑顔を見て、お雪の表情も明るくなった。お雪の前では彼の警戒心もあまり関係がなかったらしい。
 警戒するどころか、この小さな看板娘にすっかり癒されてしまったようで、寝ぼけたようなことを言いながらお雪の頬をつつき始めている。
「おめえ可愛いなあ、もういっそ娘にしてえよ」
「やだ、やめて下さいよ、もう」
 随分早い段階で打ち解けたものだと感心しながら、幼い子供のふっくらとした頬に興味を示した史郎までもがその頬をつつき始めた。お雪は最初は嫌がっていたものの、だんだん面白くなってきたのか、くすくすと笑いながら二人にされるがままになっている。
 すると突然、和やかな雰囲気に反して忙しい足音が聞こえてきた。どどどど、と荒波が押し寄せるかの如く階段を駆け下りて、店先に真っ直ぐ向かって来る。
 お雪の名前を大声で叫びながら入り口に姿を現したのは、これ以上ない程眉間に皺を寄せ、垂れ目にも関わらず眼光が鋭い、恰幅の良い主人であった。茶色の渋い格子柄の着流しから片腕を抜き、逞しい筋肉を晒したことで、二人は一瞬にして震え上がった。貫禄十分な主人は常連である史郎にも気付かないまま物凄い形相で、 「てめえらうちのお雪に気安く触れてんじゃねえぞ、殺されてえのか!」
 と言い放った。
「御主人誤解です、常連の史郎さまとそのご友人の九郎兵衛さまです!」
 お雪がそう言ってくれなければ、今すぐに二人まとめて殺されていてもおかしくないような物言いであった。驚いた二人はさっとお雪から手を引き、九郎兵衛は暫く固まっていた。常連である史郎でさえ驚いて声も出ない。こんなに恐ろしい声を聞いたのは今日が初めてだ。
 開けっ放しだった入り口から入って来た風によって一つの行灯の明かりが消えた直後、やっと史郎に気付いて穏やかな顔つきになった主人は申し訳なさそうに頭を下げたが、二人はそれに頭を下げ返す他なかった。

「先程はとんだ失礼を致しました」
「いや、気にしねえでくれ」
 深々と頭を下げる主人に九郎兵衛が手を挙げて応える。まだ少々顔が引きつっていたのを史郎は見逃さなかったが、何も言えなかった。史郎だってあんな形相の主人は恐ろしくてたまらない。
「お雪、悪いが風呂の準備をしてくれ」
「わかりました」
 お雪は素直に頷いて、すぐさま小走りで部屋を後にした。いつもなら深い眠りに入っている時間だろうに、彼女はあくび一つせずに忙しく働く。そんなお雪の背中を見届けた主人が苦笑し、またその主人の表情を、九郎兵衛が覗き込んでいた。どうやら主人の顔や身なりを観察しているらしい。また警戒してるのかと呆れつつ、先程の怒声を聞けばそれも仕方ないとも思う。ただの旅籠の主人ではないというのは既に自明のことであろう。 「もうわかってると思うが、ここの主人はおっかねえぜ。なんせあの江戸の大盗賊、仁三郎についてた奴なんだからな」
「えっ」
 九郎兵衛は無礼にも主人を指差した。しかし無理もない。いかにも人の良さそうな顔つきのこの男がまさかあの仁三郎一味の者だったとは、初対面では誰だって気付かないだろう。
 仁三郎と言えば、盗賊なら誰でも知っている、虎杖と片蔭を超える江戸の大盗賊である。その仁三郎が率いる一味は属する人数が極端に少なく、昔存在していた様々な一味の頭を集めて編成されている。だから仁三郎一味にいたというのは同時に、過去に一味を率いたことがあるということを意味している。それほどの人物が仁三郎一味から足を洗い、今は堅気に戻って旅籠を営んでいるなど、史郎でさえ今だに信じ難い話ではある。
 加えて仁三郎一味は、組織内の掟が厳しいことでも知られていて、生きて一味から抜け出すことなどは不可能に等しい筈なのだ。今でこそ、その掟を何とか掻い潜ってお雪と平和に暮らしているが、安定した生活が出来るようになるまでには相当の苦労があったに違いない。
「よく足洗えたな」
「やだなあ、昔の話ですよ。まあ、足洗う時に死にかけたから、こんな山奥で旅籠やらせて貰ってるわけですけどね」
 さらりと過去の事として話せるところが、やはり過去に一味を率いてきた頭の器なのだろう。主人は話を断ち切るように一度咳払いをした後、正座していた足を少しだけ開いた。
「名前がまだでしたね。私、佐々木丈太郎と申します。以後お見知り置きを」
「長月九郎兵衛だ。よろしく頼む」
 十分なほどの威圧感につられて、九郎兵衛も慌てて正座をした。それを後ろで見ながら、へえ、と史郎は思っている。九郎兵衛がきちんと名乗るのを聞いたのはこれが初めてなのだった。
「もう遅いですが、何か召し上がりますか? じきに風呂の用意も出来ますが」
「腹は減ってねえから飯はいいかな。酒があるならおれはそれがいい」
「わかりました。ですがもう夜も深いですから、ほどほどに」
「わかってるさ」
 史郎が口を挟む間もなく、二人の話は進んでいく。
「なあ、丈太郎とお雪は親子なのか?」
「いえ、私とお雪に血の繋がりはありません。詳しくは話せませんが、訳あってお雪を預かっています。私には妻も娘もいませんから、お雪が大変可愛くて。だから、居るだけでいい、こんな時間まで働かなくていいと言ってるんですが、申し訳ないからと言って聞かないんですよ」
「そうなのか。いい関係なんだな」
 九郎兵衛がどういう気持ちで丈太郎と話をしていたのかも、史郎は気付いていなかった。

 感覚が鈍っている。風呂に入って良い具合に身体が温まった二人は、酒も入って更に身体を火照らせていた。瞬きさえもゆっくりになり、舌も上手く回らない。下戸ではないが、上戸というわけでもなかった。
 胡座をかきつつ膝に手を置いて、重いのか軽いのかわからない身体を支える。お互い酒に強くないことは分かっているので抑えてはいたが、それでも少し飲みすぎたようだった。緩みきった顔を見合わせてはどちらからともなく笑う。特に何かを話していたわけではないが、一味の仲間と呑む時とはまた違う楽しさがあった。九郎兵衛は、
「気が合う奴と飲む酒はうめえ」
 と普段なら言わないようなことを零していた。
 このまますぐに眠ってしまってもいいのだが、何しろ半年ぶりの再会なので寝るには少し惜しい。
 その時、史郎はふと思い出した。
(そうだ。ここは、縁側があったんだ)
 みっともなく四つん這いしながら障子に向かう。片膝になってゆっくりと障子を開けると、九郎兵衛が口を尖らせて言った。
「おい、今日は少し風が強いぞ」
 着流しの合わせをそんなに開いている奴が何を今更、と史郎は思ったが、
「まあ、そう言わずにさ。風に当たったほうが気持ちいいだろ」
 と九郎兵衛を振り返って穏やかに言った。
 夜だからか少し冷たい風が部屋に入ってくる。視界を覆うような暗闇の中で、遠くの木々の葉が揺れる音が鮮明に聞こえて思わず聞き入ってしまった。二人とも身体は自然と縁側へ向かって行く。
 縁側に腰を下ろした二人は、言葉を失った。縁側に座って視界いっぱいに広がる空に、今まで見たことがないような無数の星があったからだった。
 ここから見える星空が綺麗で、貴重であることをもちろん丈太郎は知っているのであろう。中庭にある木々は全て、空の邪魔にならないように整えられている。
「綺麗なもんだな。こんなにたくさんの星、山奥じゃねえとそうそう見れやしねえ」
 史郎はため息混じりにそう呟いた。眠気などとうに吹っ飛んでしまった。以前から頻繁にこの旅籠を訪れていたのに、今まで縁側に座って空を見上げるということをしなかった。それどころか障子を開けたこともないのだから、勿体無いことをしていたものだと思う。
「勿体ねえよな」
 今まさに考えていたことを九郎兵衛に代弁されて史郎は驚く。
「何が」
「もしかしたら江戸でも……こんなに沢山の星は出てないだろうが、綺麗な星空が見えるのかもしれねえ。でもおれたちは盗賊だから、夜はちょうど盗みやってて空を見てる暇なんてねえ。勿体ねえよな」
「確かに、こうやってゆっくり眺めることは出来ねえな」
「でも、そうだな。この空の下を駆け回ることもなかなか悪くねえと、おれは思うぜ」
 酔いが覚めてしまうほど美しい空から、目が離せなかった。

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