桶に溜まった泥水の中に月が浮かんでいる。もう残り少ない桜を散らす風が天から降りてきて、水上の月を静かに揺らした。家屋の隙間から見える空の昼と夜の境目が、今日は妙にくっきりと表れている。こうなった日は決まって辺りが騒がしい。夜の帳と交わることのない明るみが、人々に時間を忘れさせてしまうのだろう。
 しかしそれはあくまでも綺麗な水で生きて来た者の話で、泥水で過ごして来た者には関係のないことであった。この江戸の町を歩きながらも、決してそこに馴染めずにいるこの二人がまさにそれだ。
 九郎兵衛は、正面の川の水には見向きもせず、桶の泥水に手を突っ込んだ。水上の月がゆらゆらと揺れて手の甲に乗る。そして彼が手を引く瞬間、指と指の隙間から月がすり抜けて落ちていくのを、史郎は見た。
「酔狂なことしてやがるな、九郎兵衛」
 手から水を滴らせて背中を丸めた、まるで亡霊のようなその姿を見て、史郎は呆れながらも懐を探り、手拭いを取り出して投げてやった。叩きつけられたと言うに相応しいそれをしっかりと両手で受け止め、悪いな、と笑いながら九郎兵衛は頭を下げる。鬢先の揃っていない真っ黒な髷が小さく揺れた。
 史郎には、この単純な男の考えていることがわからない。なぜわざわざ泥水に手を突っ込むのかも、大きく開かれた着流しの合わせから覗くさらしが何のための物なのかも、わからない。彼の行動全てを一言で表すならば、やはり先にも言った通り「酔狂」に尽きると思う。
 九郎兵衛は、愛嬌のある垂れがちの目をこちらに向けて言った。
「やっぱりおれたちには汚れた水が似合いってことさ。手も足も洗えやしねえ」
 そういうことか、と史郎は納得した。確かに自分たち盗賊は決して綺麗な水で生きてきたとは言えない。そしてこれからもそうだろう。
「違いねえ」
 と呟いて、史郎も再び泥水に浮かぶ月に視線を戻す。艶やかな銀色の前髪と、首に巻いた萌黄色の襟巻きの両端が夜風に吹かれて、さらさらと流れた。
 白い着流しに黒い着流し、二人は見た目こそ正反対だが気の合う友人同士であった。しかしたまにしか会うことが出来ない為に、こうして二人だけで顔を合わせた回数は片手で足りるほどである。友人にも関わらず、お互い同じ十八歳だということと、下の名前くらいしか知らなかったが、それぞれの生活などについて易々と触れられないことには訳があった。
「ところでどうだ、史郎。元気だったか」
「まあ、変わらねえさ。九郎兵衛も元気そうで良かった」
「あったりめえよ」
 史郎が属するは虎杖一味、九郎兵衛が属するは片蔭一味。二人は、別々の盗賊一味に属する盗人なのである。更にその二つの盗賊一味は、まさに犬猿の仲というに相応しい関係でもあった。
 そのため、積もる話もなくはないが、進んで話せるようなことは何一つない。今どこで何をしている、とも聞かない。お互いを深く探究することは、それぞれが属する一味の活動について知ることと同義であると二人は考えていた。大袈裟かもしれないが、不仲な一味同士に属しているのだからそれくらい用心するに越したことはない。年に数回しか会わないただの友人として関係を続けていく為には、自分のことは勿論、自分以外の者の情報や近況を隠す必要があったのだ。
 しかしお互いに知らないことだらけでも、酒を飲んだり飯を食ったりする時には関係がなかった。元々、二人は自分からあれこれ話したがる性格ではない。無理をして隠しているという雰囲気も感じられなかった。
「おれは最近、三味線を始めてな。ありゃなかなか良いもんだぜ」
 九郎兵衛は手拭いでさっと手を拭いて立ち上がり、三味線を弾く真似をした。毎回のように、
「おれは話下手で何をやっても不器用だ」
 と酒を飲みながら愚痴をこぼしていたくせに、実は結構器用なのではないかと史郎は見ている。
「へえ、不器用なおめえが三味線とはな。今度何か聴かせてくれよ」
「そうだな。でも自分のものを持ってる訳じゃねえし、まだとても人に聴かせられるような腕じゃねえから。まあ、そのうちな」
 その時はおめえの歌を聴かせてくれよ、と九郎兵衛は子供のような笑みを浮かべた。史郎は適当に頷いたが、果たして「今度」はいつになるだろうかということは言わないでおいた。それが何年後になっても、もし近いうちに二度と会えないようになったとしても、仕方の無いものだと思う。逆に言えばいとも簡単に縁を切れる関係で、その気楽さが心地良いことも確かである。
 史郎は思考を断ち切るようにくるりと身を翻して、
「行くぞ。江戸は人通りが多くていけねえ」
 と背中に回していた編笠を深く被った。それを見た九郎兵衛もまた同じようにして、草鞋の紐をきつく結び直す。彼が立ち上がってから、二人息を合わせるように並んで歩き始めた。
「史郎、今日はもう行き先が決まってんのか?」
「ああ。おれの行きつけの旅籠でな、茜屋ってんだ。少し歩くが、きっとおめえも気に入るさ」
「さすが、江戸を知ってるな」
 調子の良いことを言いながら強く背中を叩かれて、史郎は少しよろめく。地を覆う二人の影が、楽しそうに揺れていた。

 夜も深くなり、静かな山奥に入って間も無くして、九郎兵衛が史郎に尋ねた。
「おいおい、こりゃあ結構な山奥だが、本当にこんな所に旅籠があるのか? それに、時間も時間だし」
 町を歩いていた時よりも少し慎重な足取りで進んで行く九郎兵衛と違って、夜目がきく史郎は変わらずどんどん先をゆく。九郎兵衛を引き離す程の勢いで歩いていたが、彼の問いを聞いてようやく立ち止まった。
「あそこは終業時間なんて関係ねえんだ。それに本当に良い宿ってのは、簡単に見つけられないような所にあるってもんだぜ。あそこは飯も酒も美味い。おまけに看板娘もいて、主人も話がわかる良い男さ」
 看板娘と聞いて、九郎兵衛ははっと顔を上げた。一気に史郎の所まで駆けてきて、
「その看板娘、おめえがそう言うんなら相当良い女なんだろうが、年上か? 年下か?」
 と今まで史郎も見たことがないくらい真剣な表情をして尋ねた。そういえばこいつは年下が好きだとか言っていたな、とすっかり史郎は呆れている。しかしこんなに暗くては、夜目がきかない九郎兵衛にその表情は見えていないことだろう。
「おれたちより年下だが、気が利くし器量も良い。でも、惚れるんじゃねえぞ」
 史郎はそれだけ言って、首を傾げる九郎兵衛の先を歩いた。その後に続く足音は、先程までの覚束ない足取りは嘘のように軽快である。ひたすらに、楽しみだと嬉しそうな声も聞こえる。
 単純な奴だと思いながら、史郎はぼそりと呟く。
「おれは、年上で明るい美人な女の方が好きだな」
 それをしっかりと聞いていた九郎兵衛が、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべながらまた駆け寄って来る。
「おいおい、何だよ。やっぱりおめえにも好みってもんがあるんじゃねえか。何にも話さねえもんだから、おれはもしかして女より男が好きなんじゃねえかと思ってたんだぜ」
「そりゃ酷え誤解をされてたもんだな。生憎おれは野郎には興味ねえよ」
「だろうな。女好きの色男って顔してやがる」
「おめえは、妹みてえに可愛がって満足して、結局手を出さねえって感じに見えるぜ」
 史郎も負けじと九郎兵衛をからかう。一味で年の離れた兄弟子に囲まれた生活をしているからか、同じ歳の友人という対等な関係は非常に気楽であった。
 しかし肩の力が抜けきっている史郎に対して、九郎兵衛は何かを真剣に考え込んでいる様子で立ち止まった。どうしたんだと聞いても、
「いや、何でもねえよ」
 とだけ返されたので、史郎はそれ以上喋ることをやめた。

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