人生で一番楽しい時期って、いつだったろう。
 「お前、人生語れるほど長く生きてないじゃん」と言われれば確かにそれまでだ。俺が俺として生きてきてまだ二十年、運良く今後長生き出来るなら人生の折り返し地点にすら来ていない。でも、だからって今後の人生に「一番楽しい瞬間」があるなんて保証にはならないじゃんか。
 夢も希望もなければ、ついでに金もない。大多数の大学生って、きっとそんな感じだろ。
「夢も希望もない、ねえ。森下からそんなこと聞くとは思わなかったよ」
「なんだよ。まさか俺が夢見がちだとか言いたいのか」
「別に。ただ、夢や希望の形はたくさんあるってこと。まあ金がないってとこは否定しないけどさ」
 清水は相変わらず、コーヒーに大量のミルクと砂糖を入れながら苦笑した。静かな喫茶店で、気分だけでも大人の雰囲気を味わおうと思っていた俺の計画がぶち壊しである。「大人への第一歩はコーヒーをブラックのまま飲めること」というのが俺の持論だが、ティースプーンで混ぜると徐々に色が薄くなっていく目の前のそれは、大人とは正反対のやさしい子供の色をしている。
「で、なんでまた、俺なのさ」
 清水はぼんやりと俺の目を見ながら言った。こうしてきちんと向かい合って初めて気付いたことだけど、清水は意外に幼い顔をしている。絵を描いているときの横顔とまた印象が違うな、と思いつつ俺は自分のブラックコーヒーに視線を落とした。
「自分が会いたいと思ってる相手には、自分から声かけなきゃ駄目なんだって」
「誰かがそう言ってたの?」
「いや、俺の持論」
「へえ。いいね」
 いや、いいね、じゃなくて。他に何かないのかよ。正直に持論とか言っちゃった俺が馬鹿みたいだろ。
 清水はすっかり色が明るくなったコーヒーを一口啜って、美味い、と笑っている。以前ゼミ室で初めて話したときとはずいぶん印象が違う。
「森下って、自分がどうしたいかちゃんとわかってる感じだから。いいよねって。俺、森下のそういうとこ好きだよ」
「わかってねーけど、後でうじうじすんの、嫌だろ? いつどんな理由で急に会えなくなるのかもわかんねーし」
「じゃあ森下は俺に会いたかったんだ?」
 何の気なしにそう言われて、俺は動きを止めた。今の話の流れからすると、確かにそういう解釈になるのかもしれない。けど、会いたかったかと言われるとなんだかしっくりこない。茶化すような口振りでないのも逆に気恥ずかしく感じる。
「変な言い方するなよ」
 俺は口をへの字に曲げてテーブルに肘をついた。行儀悪いぞ、と頭の中の俺が言っているが、その話は後だ。
 清水はまたコーヒーを啜ってから言う。
「自分が相手に対して思ってることは、直接言えるときに言っておいたほうがいいよ」
「え?」
「俺の持論」
 なんちゃって、と清水が笑う。言葉と表情がちぐはぐで、壊れたと思っていたはずの壁がたった一瞬で戻ってしまった気がした。
 自分の心の中を見透かされたようなこの感覚には覚えがある。ゼミ会で、面白半分に話し掛けた奴に清水が言い放った一言。
――俺はお前のおもちゃになるつもりはないよ。
 柔らかい表情と正反対の、鋭い棘だらけの壁が彼の周りを取り囲み、一瞬のうちに相手の心を捉えるその視線に、俺は驚き恐怖し、そして魅せられた。人に嫌われることに怯えない強さと、根拠のない自信で作られた壁が羨ましかった。
 さっきの言葉はそのときほど敵意あるものではなかったけど、きっと清水からの忠告なのだろうと思う。なら俺はその忠告に従って、清水にカウンターを喰らわせるまでだ。
「俺、清水のそういうとこ好きだよ」
「……はあ?」
 清水は訝しげに俺を見た。眉間に皺を寄せながら肩をすくませて俺を見るその姿は、なんだかひどく幼い。
 彼の警戒心を解くように俺は両手を上げてへらりと笑った。清水には悪いが、親戚の小学生を相手にしてるような気になって笑えてくる。
「言えるときに言ったほうがいいんだろ? なら今言うよ。俺、清水が他人の考え見透かして全力で壁作ろうとするとこ、面白くて好きだ」
「面白い?」
「人に嫌われるのをなんとも思ってないところが、羨ましいんだ。俺みたいな小心者には真似できない物言いが清々しかった」
「意味が……わかんない。一人でぺらぺら喋るなよ」
 清水が俯きがちにそう言った。喉から絞り出したような声。俺を危険か安全か必死に探ろうとしてうろうろしてる視線。壁を作った大人の清水はそこにはもういなかった。
 言っておいたほうがいいって、お前が言ったくせに。降参のポーズをやめて、俺は清水を指差して真っ直ぐその目を見た。
「俺はお前に嫌われたくねーよ」
 好かれたいと思ってるわけじゃないけど、と小さく付け足して、俺は口を閉じた。言いたいことは全部言った、と思う。清水は目を丸くして俺を見ていたけど、一番驚いてるのは実は俺自身だ。誰かにこんなにはっきり自分の意見を言ったのは初めてかもしれない。
 そのチャンスは清水がくれた。本音で話さないと遠ざかる存在を追いかけて、下手に勘ぐることもせずにただ言葉を吐き出した。あとは清水の答え次第だ。
 清水は手元に視線を落とすと、ティースプーンで自分のコーヒーを無意味にくるくるとかき混ぜた。
「……勝手な奴。前にゼミ室で話してた時と同じだ。森下ばっかり話して」
「悪いな。でも清水には全部話さねーと、ってなんか思うんだよ」
「俺には隠し事できない?」
「うん」
「よく言われるよ」
「仮に隠してたとしても、見透かしてるように見える」
「それもよく言われる」
 先が見えないけれどテンポよく進む会話に身を預ける。その中に、相手を出し抜こうとか、見栄を張ろうとか、無駄な気持ちはない。先の会話が全く読めなくて怖い気持ちはやっぱりあるけど、悪くない。
「森下の言ってること、半分は当たり。でも半分はハズレだ」
 清水はへらりと苦笑すると、すいません、と手を挙げて店員を呼んだ。

――俺が今から何頼むか、お前わかる?
 店員が席に来るまでにそんな滅茶苦茶な質問を投げかけられて、俺はぽかんと口を開けることしか出来なかった。最近初めてまともに会話したような相手の好きな食べ物なんて、わかるわけがない。ていうかこの質問は、今さっきの会話の流れに関係があるのか?
 頭上に疑問符を浮かべて固まっている俺をよそに、清水は呑気な声で、
「キャラメルワッフルひとつ。あと、お皿とフォークは二つで」
 と注文していた。女子か。ていうか俺と分け合うつもりなのか。ますます女子か。
 注文内容になんの違和感も覚えなかったらしい店員は明るい声で、かしこまりました、と言って去っていく。この時、キャラメルワッフルとかいう可愛らしい食べ物のせいもあって、俺は清水がかなり別世界の人間に見えていた。それが表情にも如実に表れていたらしく、
「なにその微妙な顔」
 と清水が笑った。また、屈託のない笑顔に戻っている。その切り替えの早さに未だに慣れない俺は、ため息をついて次の言葉を待つしかない。
 清水は意外にもそのあとすぐに、自分のことを話し始めた。
「俺回りくどいからさ、こんな言い方しか出来なくて悪いけど……人の考え見透かせるほど、俺は他人のこと考えてないよ。怖いだけ。ただそれだけ」
「怖い?」
 頭で考えるよりも先に聞き返していた。目を伏せてうろうろする視線は、いつも何を言われても動じない清水からは想像できないほど暗く、不安定だった。
 俺の問いに反応してしゃんと顔を上げた清水の瞳に、じわりと深い黒が滲むのを見た。透き通った水に落ちた一滴の黒のようなそれはまるで、清水が描く水彩画のように淡く、でも力強く、雄弁で。
「俺がさっき何頼もうとしてたか、森下わかんなかっただろ? それと同じだよ。俺だって森下が何考えてるのか、声に出して言ってくれなきゃわかんない。声に出してくれたとしても、それが本音だって証拠はどこにもない。自分で聞き出したり、みつけるしかないんだ。みんなそうやって頑張って、誰かと生きてる」
「清水……」
「俺は怖いから頑張ることを放棄したただの怠け者だよ。一度開き直ったら、もう元に戻れなくなっちゃってさ」
 森下は偉いね、と小さく付け加えて、清水は口を閉じた。俺は何も言えなかった。
 どれだけ歩み寄ろうとしても、結局他人という大きな壁を越えることはできないと思い知らされる。それに何より、清水の言葉ひとつひとつが痛々しくて苦しかった。
 この壁は多分、ひとりで作ったものじゃない。なんとなくそう感じることが一番嫌だった。
「怖いから、突き放すような言い方してたのか、ずっと」
「それもあるし、歩み寄ることに疲れたってのもある」
「俺が話しかけたときも、そうだった?」
「うん」
「……今も?」
「……」
 否定でも肯定でもない沈黙が、思いのほかこたえた。休日にわざわざ誘い出してこうやって顔を突き合わせても、清水に心を開かせることはできなかった。歩み寄りたいと思わせることもできなかった。無性に悔しくて腹立たしい。やり場のない感情を持て余して、無意識のうちに握り締めていた拳は、気付けばずっと膝の上に置いたままだ。
 気まずい沈黙を破ったのは、場違いに呑気な店員の声と、これまた場違いな可愛らしい食べ物だった。
「お待たせしましたー、キャラメルワッフルです。取り皿こちらに置かせていただきますねー」
「……ありがとうございます」
 綺麗な焼き色がついたワッフルの上に乗った大量のホイップと、皿の中を彩る明るい色のキャラメルソース。俺は見てるだけで胃がもたれそうだったが、店員が伝票を置いて去った途端清水はなんのためらいもなくナイフとフォークに手を伸ばしてそれを取り分けた。
 俺そんな甘ったるそうなのいらねーんだけど、と言うと、
「食べてみなきゃわかんないだろ」
 と清水は真面目な表情で言った。この食べ物ですら、清水の言いたいことに含まれているのだろうか。そう思うと蔑ろにもできず、綺麗に取り分けられたワッフルが乗る小さな皿をしぶしぶ受け取った。
 見慣れない洒落た食べ物。いただきます、と呟いてからそれを当たり前のように頬張る清水。ふわふわしたワッフルとは正反対にある重苦しい雰囲気。休日に友達――と呼べるのかまだわからないが――とカフェに入ってこんな展開になるなんて、予想もしなかった。たとえ相手が清水であろうとも。
 俺はようやくフォークに手を伸ばして、それをキャラメルワッフルに突き刺した。ほんのり焼き色のついた表面がサクッと音を立てる。なかなかいい音だ。
 食べ慣れた奴ならナイフを使って一口サイズに切ったりするんだろうけど、俺はそのままかぶりついた。ちまちま食べるのって性に合わないし。
 口に含むと、アーモンドの香りがぶわっと広がって、キャラメルの甘さがほんのり後を追いかけるような。なんていうか、思ってたほど甘くない。
「美味いな、出来たてって」
「だろ?」
 しみじみ呟く俺に、清水は無邪気に笑う。ころころ表情が変わるところはもうこっちが慣れるしかないようだ。どうやら、演技でもなんでもなく全部本当の清水らしいし。
 俺は、次に何を言うべきか考えていた。想像してたよりもずっと軽く食べられて、全く腹に溜まらないだろうワッフルを無言で頬張りつつ、自分でも理解しきれない気持ちをなんとか言葉にしようと頭を捻る。
 さっき抱いた気持ちはなんだった? 声に出しても信じられないってどういうことだ? 清水が怖いのは、一体なんだ?
「なんか……色々抽象的すぎてわかんねーよ」
「悪いな」
「ただの怠け者のくせに、友達でもなんでもない俺と休日にわざわざ外出すんのかよ」
「……そうだね」
「そうだねって……お前さぁ!」
 とうとう俺は声を荒げて清水を睨み付けた。でも心のどこかでは冷静で、その証拠に声は他の客に迷惑にならない程度には静かだった。
 清水は手を止めて俺と視線を合わせた。また瞳に深い黒が滲んでいく。まただ、と思ったら途端に悲しい気持ちが込み上げてきて、自分でもわけが分からないまま清水に訴えるように呟く。顔がくしゃりと歪んだために視界が狭まる。
「俺は清水の友達になりたいんだ」
「わかってた」清水はすぐに答えた。「森下がだめなんじゃない。俺が、だめなんだ」
 俺は雄弁になれない。この複雑な気持ちをそのまま伝えるだけの正しい言葉を知らない。伝えたいことの意味を捉えることすら難しい。
――ああ、清水が遠ざけてたのは他人じゃない。自分だ。
 そう気付いて、やっと腑に落ちる答えを見つけた気がしても、どうすることもできないのだ。
 清水から視線を外して、ワッフルの最後の一切れを口に運んで俯く。思ったほど甘くないと思っていたそれが、今はやけに甘く感じる。それとは反対に、今の俺は苦みばしった表情になっているのだろうが。
(清水が人生で一番楽しかった時は、きっともう過去なんだろうな)
 内心そう感じたことは、本人には言えない。また「悪いな」と言われたくはないのだ。
「ごちそうさまでした」
 何事もなかったように二人、手を合わせる。目を伏せて立ち上がる清水を見上げてから、ほんの一秒遅れて俺も立ち上がる。
 代金は清水が奢ってくれた。無理やりにでも自分の分を払おうとしたが、レジ前で男二人がもたつくのもみっともないと思い、ごちそうさまと言いながら俺は先に店を出ようとした。その時、せっかく誘ってくれたのにな、と呟いた清水の横顔が頭から離れない。
 謝って欲しかったわけじゃない。俺が望んで知ろうとしたことだ。ただ一つだけ欲張るなら、
(『今だ』って、言ってほしかったなぁ)
 ということなのだ。

 そのあと、俺たちは帰り道の途中まで並んで歩いた。立ち並ぶビルの隙間から夕焼けの淡い色合いが漏れている。空を見上げるのは眩しくて、俺は地面に落ちた自分の影を見ながらゆっくり歩いていた。
 すると、清水が思い出したように俺に問う。
「森下、名前はなんていうの?」
「修次」
「へえ、いいね。シュージ」
「清水は?」
「浩明だよ」
「ふうん」
 俺は適当に相槌を打った。別に名前は聞かなくても知っていたのだ。卒制再審査、って教授に名前呼ばれてたから。
 清水は、結局二つ先の交差点で別れるまで、俺のことを「修次」と呼んだ。そのことについて俺は何も言わなかったし、清水もすっかりいつも通りだった。ただ別れ際に、
「次会うのは、卒業式か。じゃあな、修次」
 と手を振った清水の表情は、なんだかいつもより柔らかく見えた。くるりと身を翻して、鼻歌を歌いながら夕陽の色に溶けていく清水の背中は、なんだか少し子供っぽい。公園で泥だらけになるまで遊んだ子供が家に帰るところを見ているような、微笑ましい気持ちになる。そして一日が終わるというもの悲しさが、柔らかな風に紛れて俺を包んだ。
 大人になったら、感情の波は徐々におさまってくるものだと思っていた。けれど実際はどうだろう。悲しくなったり楽しくなったり、不安になったり安心したり、目の前に俺じゃない誰かが一人いるだけで、こんなにも激しく心が動く。
――みんなそうやって頑張って、誰かと生きてる。
 清水が言った『みんな』の中に、俺は含まれているのだろうか。なにより清水自身が含まれているのだろうか。
 そればかりが気になって、俺はしばらく清水の背中から目を背けることができなかった。

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