「ただ人を描きたかったから描きました。以上です」
 卒制の審査日、あいつはプレゼンでそう言った。
 本来なら、自分が描いた作品を言葉で説明する場だ。持ち時間も、語り尽くせと言わんばかりに五分間与えられている。そのため、作品を制作するよりもプレゼンのほうが苦痛だと言っているやつも多かった。そりゃ確かに「この絵を見て感じ取ってください」って感じだし。
 けれど卒制審査ともなればそういうわけにはいかないのだ。一人一人エントリー票を貰って作品受付をして、入学式の時に学長が立って話すような広いステージに自分の作品を置いて、着慣れないスーツを着てプレゼンしなければならない。決められた形式と重苦しい雰囲気の中で行うそれは、学生たちの間では「処刑」と呼ばれている。なにしろプレゼンの後には、それはそれは厳しい酷評が待ち受けているのだから。
 そんな「処刑場」であいつは、数人の教授と何十人もの生徒の注目を一身に浴びながら堂々とそう言い放ったのだ。誰もが、信じられないといった顔であいつを見た。俺だって信じられなかった。数秒経ってから会場はどよめき、教授たちは呆れたように首を振って言った。
「評価する以前の問題が大きすぎる」
 そんなことを言われたら、発表者はもうステージを降りるしかない。あいつは丁寧に一礼して、自分の身長よりはるかに大きな絵を持ってゆっくりとその場から去った。その視線はとても真っ直ぐで頑なで、俺にはそれがなんだか清々しく思えた。
 審査日は、自分の発表が終わってもその場に残って他の人の発表を聞いていなければいけない決まりがあったが、あのあと会場を探してもあいつの姿はなかった。そして審査後、教授の口から発表された「清水浩明、後日再審査」という事実だけが、俺の心に妙な違和感を残した。

 俺の記憶の中の清水は、いつも一人だった。教室移動も昼飯もゼミ会も、特定の誰かと行動を共にしているところを見たことがない。別に話しかけにくい雰囲気ではなかったけど、一人でいることがものすごく自然で楽そうに見えたから、俺たちも下手に歩み寄ろうとしなかった。
 しかしゼミ会の時ふと「あいつっていつも一人だよな」と思い立った友人が、興味本位で清水に話しかけたことがあった。俺は黙って隣でその様子を見ていたが、清水の当たり障りのない対応には筆舌に尽くし難い違和感を覚えた。言うなればそれは見えない壁。自分のことは話さず、ただ相槌を打っているだけ。そうだな、と頷くたびに軽くセットされた茶髪が揺れる。その場で浮かないように微笑んではいるが、どこか遠い別の場所を見ているような真っ直ぐな瞳。俺はそんな清水がなんだか少し不気味で、とても自分からは話しかけられなかった。
 けれど俺は、あいつの絵を見るのは好きだった。それを前にしている時だけは不思議と、清水を身近な存在に感じていた。「自分はこれを描いた人間を知っている」と。その気持ちはまだ健在していたようで、今日審査会場で絵を見たときも妙な安心感を覚えた。実際には言葉を交わしたことすらないのに、変な話だ。
「作品、ゼミ室に置いてくる」
「おー、一緒に運ぶか?」
「いいよ自分で持てるから。じゃあ、また明日な」
 親切な友人に軽く手を振って、俺はスーツ姿のまま数枚のパネルを抱え上げた。当たり前に絵の具は乾いているだろうが、細心の注意を払って、スーツに絵が触れないよう手に力を込める。こんな時作品よりもスーツの心配をしている時点で、俺は作家失格なのかもしれない。まあ、将来絵で飯を食っていきたいなんて願望もないから、別にいいけど。
 外に出ると辺りはもう真っ暗で、冷たい風が俺の髪を撫で付けた。夏のじっとりとした空気がいっそ恋しくなるような、物悲しい秋の風だ。
 俺は足早に学科棟に向かって歩きながら、なんとなく清水の絵を思い出していた。俺の身長の二倍はあるだろう大きなキャンバスに描かれた、広大な海と繊細な花々。画材はきっと透明水彩だろう、明るい透明感と丁寧な筆遣いが見て取れた。清水の穏やかな画風と、キャンバスに広がる海に身を預けて微笑む少年。近くで注意深く見て初めて気づく、その少年の目に映る豊かな色彩。そして脳裏に蘇る清水の声。
『ただ人を描きたかったから描きました』
 そう断言するにはあまりにも、キャンバスに広がった世界は大きすぎる気がした。あいつの手を離れて一つの空間となったその絵は、見る人にもっとたくさんのことを訴えたがっているように見えた。
「まあ、それにしてもあの一言だけじゃ、だめだよな」
 なぜか自分を納得させるようにそう呟いた俺は、誰もいないはずのゼミ室のドアを開けた。暗い廊下に伸びる光。俺と同じくこんな時間まで作品を運ばなかった怠け者がいるのか、と思ったが、その予想は見事に外れた。
 眩しくて目を細めながら部屋に入ると、そこにはスーツを脱いで作業着に着替えた清水がいた。絵の具で床を汚さないように敷かれたブルーシートの上で胡坐をかき、壁に卒制の絵を立てかけて、穴が開くほどじっとそれを見つめていた。
「清水……?」
 気付いた時には名前を呼んでいた。声をかけちゃだめだったか、と思ったが清水はすぐに振り返ってこちらを見たため、ばちっ、と音がしそうなほどしっかり目が合ってしまった。今日ステージ上で見せたような鋭い視線ではなかったが、なんだか少し気まずい。何せ清水と二人になるのはこれが初めてだ。清水に至っては、もしかすると俺の名前すら認識していないかもしれない。けど思いっきり目を合わせておいて、話しかけないのは不自然だ。
「まだ、絵描いてんの」
「ちょっとね」
 おそるおそる話しかけるとあっさり返事が返ってきた。落ち着いていて、警戒心のかけらもない柔らかい声。俺は部屋の適当な場所に自分の作品をまとめて置きながら、横目で清水の様子を窺う。
「透明水彩で描いてんだ?」
「うん。好きなんだ」
「いつもここで描いてんの?」
「そういうわけじゃないけど。さすがにこの大きさになっちゃうと家と大学往復すんの、厳しいから」
 なんだ、聞けば結構話すんじゃん。頷いたり首振ったりするだけじゃないんだな。
 俺はなんだか安心して、靴を脱いで清水の隣に立った。驚いたように振り返った清水は、俺が次に発した言葉であからさまに目の色を変えた。
「なあ、なんで今日、あれだけしか言わなかったの」
 壁時計の秒針が動く音が大きくなったように錯覚する。俺も清水も動きを止めて、互いの目をじっと見る。つまらない男の意地かもしれないが、先に視線を外したら負けだと思った。
 しばらくの沈黙の後、プリンターの上に置いてあった紙が滑り落ちて僅かに音を立てたため、清水は我に返ったように自分の絵に向き直った。
「なんにも考えてなかったからだよ」
 それは全てを突き放すような冷たさを含んでいて、遠まわしに「関係ない」と言われているようで、俺は少しむっとした。
 そりゃ、お前と話すのは今日が初めてだし、お前にとって俺はギリギリ顔見知りってレベルの人間だけど。お節介かもしれないけど。でももっとちゃんと話していれば、お前の作品は認めてもらえたんじゃないのか。
 そんな身勝手な言葉たちが喉元まで出かかっていたが、ぐっと飲み下した。俺のエゴをこいつに押し付けちゃいけないし、まだ「変なやつ」ってレッテルを貼られたくはない。
 俺はこっそりと息を吐き出して自分を落ち着かせたあと、声が上擦らないように気をつけながら清水に言った。
「俺、学生賞の投票、お前の絵に入れたんだ」
「え?」
 清水はまた弾かれたように俺を見上げた。ほんと、と俺は念を押した。
 学生賞は学科賞や学長賞などと違って、俺たち学生が唯一関与できる賞だった。けれど話し合いではなく投票だから、簡単に言えば学生による人気投票みたいなものだ。俺は投票用紙に迷わず清水の名前を書いて提出したけど、結局清水が学生賞を取ることはできなかった。
 まあ、一応俺も対象ではあったのだが、掠りもしないだろうと思って自分のことは気にもしていなかった。さすがに四年間も絵を描いてれば、周りからの評価がどれくらいなのかも自然にわかってくる。
 清水もきっと気にしてないんだろうとは思っていた。でも、押し付けにならない程度に伝えておけたらと思ったのだが、いざ本人を目の前にすると上手く言えない。今日初めて話すやつが何言ってんだ、って感じだし。
「この絵を見るずっと前から、決めてた、気がする」
「……ずっと前から?」
「一年のときからずっと、いいなって見てたから。なんていうか、俺には描けないなって思ったし……色とか構図とかも、好きな感じだったし……」
 声がどんどんしぼんでいく。なんだか恥ずかしさが膨らんできて、俺は頭をがしがしと掻きながら俯いた。いつも清水の絵を見ていたときはもっと色んなことを考えていたのに。細かい所までじっくり見て、わかろうとしていたはずなのに。言葉にすることがこんなにも難しいとは知らなかった。
 結局そのまま黙り込んでしまった俺に、清水は「そっか」と声をかけた。視線はまた広大な海に吸い込まれている。深い青は清水の瞳に映ってゆらりと揺れているように見えた。こいつは本当に、いつもどこを見ているのかわからない。
 清水は一度まばたきして、言った。
「びっくりした。自分の絵なんて、自分だけが好きでいればそれでいいと思ってたけど……嬉しいもんだな」
「絵が好きだって、言われたことがないわけじゃないんだろ?」
「多分ね」
「なんだそれ」
「俺だって上手く言えない。同じだよ」
 相手が清水というだけで、ほんの少しのなんでもないやりとりがとてつもなく長い時間に感じられた。慣れない相手だからだろうか。それとも清水の言葉が、俺の周りにいる人間の誰とも違う、独特の雰囲気を纏っているからだろうか。
 俺は顔を上げて、もう一度清水の絵を見ながら聞いた。
「人が描きたかったってのは、ほんとだったのか?」
「ほんとだよ。それが全てじゃないけど」清水は手でくるくると筆を回しながら言う。「俺は雄弁じゃないから」
 その言葉が意味することは正直よくわからなかったけど、今度は俺が「そっか」と声をかける番だった。清水は静かに頷いて、足元に置いていた色とりどりのパレットに手を伸ばした。時間が再び動き出したような気がして、俺はブルーシートから出て靴を履き直す。
「俺はもう帰るけど、お前はまだ居るんだな」
「うん。俺はまだ、残りたいから」
「再審査はちゃんと通過しろよな」
「そうだな。ありがとう、森下」
 言うが早いか、清水は前傾姿勢でキャンバスに筆を走らせ始めた。その動きは、まるで自分の世界に飛び込んで泳ぎ回る魚のようだ。きっと誰にも縛られることなく自由に、限られた永遠の中で、海の新たな表情を探し求めるのだろう。
 俺はその姿を見て、やっぱり清水の絵に投票して良かったと思った。

 絵は完成したら描き手から離れていくものだと、ゼミの教授が言っていた。曰く、絵は止まって切り取られた瞬間であるのに対して、人間は成長していく生き物だからと。時間が経てば経つほど、絵と描き手の距離は離れていくのだと。
 当時は「そんなもんかな」としか思っていなかったが、今なら少しわかる気がするのだ。教授の言葉が、清水の絵が、清水のことが。
 絵が自分から離れていくのは、確かに寂しい。けれど切り取られた瞬間にかけた時間は嘘じゃないし、愛着だって消えない。清水はきっとそれがわかってたから、絵の中でなら雄弁になれたんだ。
 俺は学科棟から外に出て、三階のゼミ室を見上げた。部屋の電気によって四角く光ったような窓が、夜空の中にくっきりと存在している。そしてブルーシートの上で胡座をかく清水を思い出しながら、俺は首を傾げた。
「あいつに名前呼ばれたの、俺だけかもな」
 怠け者の今日の俺に感謝して、俺は学科棟に背を向けて歩き始めた。

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