『もし異世界というものがあったとして』
 先生の話し始めはいつも決まっていて、何かあるとすぐ異世界というものに結びつけたがる人だった。その話が最終的に向かう所は決まっていなくて、ただ異世界について話したいというのが先生の本音だったように思う。
 先生は話が特別上手いわけではなかった。あれとかそれとか言ってばっかりで、大事な所が伝わっていない。先生は本当に国語の先生なのかと疑ってしまう程、話術なんてものは欠片も感じられなかった。かと言ってただ感情的になっているだけかと言われればそういう訳でもなく、しかし何もかもが曖昧な「なんとなく」の話だった。
 しかしそんな先生の下手くそな話に興味を持ってしまった私も、すっかり先生の罠に嵌ってしまっていたのだった。クラスにはわたしのような子が大勢いて、異世界について本格的に調べ始める子も出て来た。先生はたちまちクラスの人気者になり、先生が異世界トークを繰り広げるたび、歓声が上がる程だった。
 そういう状況に、何故か誰も違和感を抱かなかった。当然私も、先生もだ。今思えばある種宗教的なその空間に私たちは自ら、そして意図的に存在していた。だからもともと曖昧な異世界の話はそのうちに「おかしな事なんて何もない。とにかく異世界とはこういうものだ」という無理矢理な言葉で締めくくられるようになった。その事にさえ、誰も疑問を持たなかった。感覚が麻痺していたのか、それとも異世界は存在していると信じたかったのか、今ではもうわからない。
 ある時先生は、図書室で本を読んでいた私に言った。
「本っていいよね。先生も本を読むの、好きなんだ」
「どんな本が好きなんですか?」
「そうだねえ……、うん、ここの本なら何でも良いんだよ」
 先生はそう言って棚から適当に一冊の本を取り出し、貸し出しカウンターに持って行った。「英語からはじめる・異国語を話すために必要な5つの心得」という本だったが、先生がその本をきちんと最後まで読むとは到底思えなかった。少し頼りなさそうな先生の背中を眺め、瞼の裏にしっかりと焼き付けた後、私は再び読みかけの本に視線を落とした。
 それが、私が見た先生の最後の姿になった。
 二日後、先生は「ある事情」でもう学校に来られなくなったのだと校長先生から全校生に伝えられた。生きてはいるし病気でもないが、これからもう一切連絡が取れないらしいと言う事だった。全校生、特に、先生が担任をしていた私のクラスメイトは困惑して状況が飲み込めないまま、何だか寂しそうな顔をしていた。しかしそんな中で、唯一私だけが、この状況に納得していた。具体的に何が起こるかなんて予想はしていなかったが、きっと私は先生がいなくなる事を知っていた。特別驚く事なんてない。だってこれは必然だったのだから。私だってもちろん先生の事が好きだったけれど、止められなかったのだ。先生が今まで本当に異世界の話をしていたのなら、それは私のような人間がどうにか出来るようなものではないと知っている。きっとこの世界の誰にも、敵う場所ではない。だから先生にはもう、会えない。
 それから半年経った、一月三日。私は目が覚めるなり布団を飛び出し、外に出てポストを確かめた。友達からの年賀状が楽しみだったからじゃない。私が内緒で先生に送った年賀状の返事が、もしかしたら届いているかもしれないと思ったからだ。元旦に私の年賀状を見て、先生もすぐに年賀状を出してくれていたなら、今日届いてもおかしくない。私は乱暴に郵便物を取り出して、自分の名前が書いてある葉書を片っ端から調べた。……違う、違う、これも違う。
 その時、……一枚の葉書に触れた時、言葉ではとても言い表す事の出来ないような吐き気に襲われた。腹の底から胸の内までを何かにかき混ぜられているようだった。すぐに立っていられなくなり、私はしゃがみ込んだまま郵便物をぼとぼととその場に落としてしまったが、この吐き気の元凶である筈の一枚の葉書を手放す事だけはしなかった。
 吐き気だけではなく眩暈や頭痛に襲われながら、震える手でゆっくりと葉書の裏を見た。白紙だ。差出人どころか私の名前すら書かれていない。葉書を直視した事でまた吐き気が増したが、感覚が麻痺してきたのか、手の震えが止まっていた。そのまま表に返す。今度は、白紙じゃない。
「何て書いてあるか……読めないよ、先生……」
 間違いなく、この葉書は、先生が書いたものだった。私にはそう断言する事が出来た。
 端的に言うとそれは文字だった。難しい、やたら画数の多い漢字の羅列。一文字ずつ携帯に打ち込んだらちゃんと漢字として変換されるであろう文字。しかしそれは単語としての意味を持たなかった。日本人の私がこの漢字を読む事が出来ないなら、これはもしかしたら中国語かもしれないし、そう考えるほうが現実的だろう。けれど今まで散々先生の異世界トークを聞いてきた私には、この単語は「この世界」には存在しないものだという事がすぐにわかった。そして何より、そう考えた方が私には都合が良かった。
 言いようのない吐き気に襲われていたのも忘れて、わたしは葉書を見つめ続けた。そして隅の方に、小さな落書きのようなものを見つけた。それはよく見ると文字だったのだけれど、漢字ではなく、英語だった。
『ここの本なら何でも良いんだよ』
 頭の中にすっと、あの時の先生の声が流れてきた。そして瞼の裏に先生の姿を見た。大丈夫、私はまだ先生を忘れたりなんかしない。
 あなたの先生より、と書かれた英語を一度だけ指でなぞってから、その言葉を確かに心に留めておく為に、掌の中にぎゅっと閉じ込めた。

「……だめだな。こんな話、ずっと書いてたら変な気分になってくる。やめようかな」
「あれえ、坂町さん意外ですねえ、異世界信じてるんですかあ?」
「うん。今君が見てる、割と異常な世界、略して異世界だよ」
「ひどーい! 瓶ビール五本ぽっちでそりゃあないでしょう!」
 僕がパソコンのキーボードを打ち鳴らしている隣で、一人飲んだくれていた男が喚く。飲みすぎだ、と若干の嫌味を込めて言ってみても、今の彼には全て冗談として受け取られてしまうのだった。しかし三十にもなって「ひどーい!」なんて言うのはやめて欲しい。あと、語尾を伸ばすのも。
 僕は酒が飲めない。タバコも吸わない。だから慣れないジャンルの話を書いて気持ちが悪くなっても、気分転換する方法がない。別に酔っ払って視界をおかしくしている彼が羨ましいと言っている訳じゃないが、たまには仕事の事を考えない時間が欲しいのだ。特に、自分が見た事のない世界の話を書いている時は。
「君がどれだけ飲んだくれようが僕には関係のない話だけど……今君は作家の部屋にいるって事をもう少し理解した方がいいんじゃないかな」
 僕がため息をつきながら遠回しに「酒を飲む為だけにここに来たのなら出ていけ」と言うと、仕事以外では全く頼りにならない僕の担当編集こと宮下君はこう答えた。
「大丈夫です! 坂町さんが僕と打ち合わせをする時には仕事モードに切り替えますから! ていうか僕は、坂町さんが一区切りつくの待ってたんですからねえ」
 つくづく調子の良い男だ、彼は。
「なるほど、じゃあとりあえず終わったから今から打ち合わせでもしてみようか」
「そんなあ!」
 あれだけ飲んでもまだ飲み足りなかったらしく、宮下君は心底残念そうな顔をして仕方なくソファから重い腰を上げた。それからぼそりと、僕に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「僕、どうせなら一緒にお酒飲んでくれる先生の担当が良かったなあ」
 悪かったな、酒が飲めなくて。作家や担当が希望したからといって変更を聞き入れて貰えるものでもないのだろうが、そんなに作家と酒が飲みたいのなら、担当作家を変えてくれとでも頼めばいいじゃないか。僕は酒を酌み交わすような関係を求めないから、どうぞご勝手に。
 腹が立つのか、呆れているのか自分でもわからないままに、僕はデスクを離れて部屋の中央にあるこたつの電源を入れる。寝ようとしているわけじゃない。ゆっくりテレビを見ようとしているわけでもない。今からみっちり打ち合わせをするのだ。
 僕がこたつ布団の中に足を突っ込んだのと同時に、宮下君は先程とはまるで別人のように、嬉しそうに歩いてくる。
「でも僕やっぱり、こたつで打ち合わせ出来る事のほうが嬉しいなあ!」
「そりゃあ良かった。言っておくが打ち合わせ中に眠そうな顔をしていたら、遠慮なく殴るからね」
 口ではきつい事を言いながらも、こたつに入るとやはり少し顔が緩んでしまうのだった。宮下君は足だけでなく手をこたつに突っ込んで、机の上に頬をくっ付けている。心底暖かそうで、今にも溶け出しそうな顔をしていた。
 酒を飲んでいる時でもそうでない時も彼は本当に子供のようだった。嬉しい時には身体全体ではしゃいで、悲しいときにはまるで絶望を見た時のように暗い声を発した。大人として、感情をそのまま表に出せる事が羨ましいとは思わなかったが、少なくとも彼は僕の目にとても魅力的に映った。ただ、魅力的だと思うだけであって、それが良い事か悪い事かはまた別の話だ。社会人として、大人として、人として、協調性や我慢は必要不可欠なものだという事を彼はもう少し理解すべきであるとも思う。
 さて、宮下くんの話はこのくらいにして、そろそろ本題に入ろう。
「なあ、君は異世界についてどう思う?」
「そんなの僕に聞いてどうするんですか? 真面目に打ち合わせしましょうよ!」
「大真面目だ。……いいから、何かあるなら答えてくれ」
 さすがにもう大人な彼も、打ち合わせになると語尾を伸ばすのをやめた。しかし声の大きさは変わらない。いつまで経っても僕の質問の意図を察してはくれないし、きっとそんな事しようともしていない。知り合って一緒に仕事をし始めてから随分経つけれど、息が合っているとはお世辞にも言い難い。
 宮下君は、尋問みたいですね、と言いながら腕組みをして何かを考えはじめた。そしてお茶を飲んで口を湿らせると、「仕事モード」になった彼は一気に喋り出す。
「そうですね、メディアで異世界ネタが取り上げられる事はまずないですし、ネット上で公開されてる体験談もまだまだ少なく確実なものとは言えない。有名な、きさらぎ駅や時空のおっさん……そういう話好きなんで僕も読んだ事ありますけど、やっぱりリアリティを求めるなら先生が異世界に行って実際に体験してみるほかないですよね! 正直僕は異世界に行くのはごめんです! 僕はこの世界に満足しているし、出来れば異世界なんて完成度の高い作り話であって欲しいです、ちょっと怖いし。それに、仕事の為に異世界で取材、なんてリスクを冒す程この仕事に情熱もってないです!」
 僕は驚きと呆れで一瞬声が出なかった。
「……君はその、あれだな。都合の良い時だけ随分と舌がよく回るな。前言撤回、やっぱり仕事の時でも頼りになりそうにない」
「何の話ですか?」
「いや、こっちの話だ」
 確かに仕事の為に異世界に行こうなんて危険な事、僕だってやりたくないが、「リスクを冒す程この仕事に情熱もってない」なんて、そんなきっぱりと言わなくてもいいじゃないかと思う。実際そう思っていても、一緒に仕事をする、ましてや作家と担当の関係である僕に、よく平気でそんな事が言えたものだ。彼の頭の中の辞書には「お世辞」や「遠慮」なんて社会を上手く渡って行く為の言葉は載っていないのだろう。
 僕は少し気を悪くして、頭を掻きむしってそっぽを向いた。
「正直僕はこれあんまり乗り気じゃないんだよなあ。異世界なんて」
「どうしてですか? もう小話だって書いてたのに。あ、そうだ、さっきのもう出来たんですよね! 見せて下さい! 話はそれから!」
「えー……今回のは本当に短いんだけど」
「大丈夫です! いいから早く!」
 宮下君が僕に向かって手を伸ばしうるさく言ったので、僕は渋々立ち上がって、さっき書いていた話をプリントアウトして彼に渡した。ありがとうございまーす、と調子良く言った彼はすぐに文章に視線を落として小話を読み始めた。
 彼は職業のせいか文章を読むのが異常に速い。そんなスピードで内容をちゃんと理解しているのかと未だに半信半疑だが、読み終えた後によく核心を突いた質問をしてくるものだから侮れない。いつもは僕の気持ちを察してなどくれないが、文章を読まれた時だけは、僕の心の内までもを見透かされているような気がしてならない。
 そんな事を考えていたほんの数十秒で、彼は小話を読み終えてしまった。
「で、この話はこの後どう展開させるつもりなんですか?」
 ほら、その話を書いた僕自身が一番疑問に思っていた点を真っ先に突いてきた。
「そこまで考えてないよ。そもそも異世界ってものを僕はよく知らないし、このジャンルで書けるかどうかもわからない」
「良いと思いますけどねえ、異世界。僕は好きですよ」
「君だけが好きでも仕方ないだろう」
 今初めて知ったが、どうやら宮下君は異世界について相当興味があるようだった。こんなに騒がしいにも関わらず彼は物凄く怖がりだから、ホラー映画だけでなく、こういう未知の世界みたいなものも怖いんだろうと僕は勝手に思い込んでいた。そういえば彼は、前にもブラックホールがどうとか話していたな。
「宮下君はそういうの、ちょっと詳しそうだな。異世界が好きなら色々知ってるんじゃないのか?」
「いやあ、僕はネットの異世界体験談みたいなの見てるだけですから。文献資料は読んだ事ないですよ、そもそもあるのか知らないけど」
 別に他人をあてにしてる訳じゃないが、人の口から直接何かを聞く方がまだ現実味がありそうだと思っていたのにがっかりだ。
「異世界に行ってしまった教師と、女の子が文通する話……とかなら書けなくもないが、そういうわけにもいかないしなあ」
「まあ盛り上がりに欠けますしね。でも僕は異世界ネタ自体は良いと思いますよ。いつも書いてるような話と真逆のイメージって感じで」
「真逆だからこそ慎重になってるんじゃないか」
 僕が今まで書いてきた物語の大半は時代小説だった。そのうえ現代を、しかも異次元なんて存在も確かではないものを取り入れた物語を書くのは今回が初めてだ。僕もまだ三十二歳、決して人生経験が豊富な訳でも、作家人生が長い訳でもない。自論としては、僕は過去の出来事、つまり時代小説よりも現代を舞台にした小説の方が余程書くのが難しいと考えている。技量の話をしているんじゃない。僕は現代を生きているのに、体験した職業より体験していない職業の方が多いとか、子供の気持ちを書こうにも僕が子供の頃だった時代と今は大きく違うんだとか、そもそも異性になった事がないのだから異性の感情を描写するのには限界があるとか、そういう些細な所が気になるし、難しいと思う。こういう所を一度気にするとずっともやもやしているのは、本当に僕の悪い所だ。
「知らない世界だから、想像しなきゃいけない事が多すぎて気分が悪くなる」
「なーに言ってんですか、いつも書いてる時代ものの舞台だって十分知らない世界でしょうに」
 人の気も知らないで、宮下君は僕の肩をばしばしと叩いた。本当に遠慮がない。僕はあまり発想力に自信がないから、資料を参考にしなければきっとそれなりのものは書けないだろう。時代ものはまだ資料が大量に残っているけれどファンタジーは違うのだ。僕の頭の中にしか、僕の考えているものはない。こんな基本的な事で悩むなんて、僕は作家失格か?
 僕はもう完全に熱が冷めてしまって、ふてくされたように言う。
「やっぱり異世界の話なんてやめようか。資料を集めるのも大変そうだし」
「えー! 書いて下さいよ! いいじゃないですか、異世界を忠実に描けなくても、先生のイメージする異世界を書けば! 読者はきっと先生の書く異世界話読みたいに決まってます!」
 こたつから飛び上がる勢いで宮下君が立ち上がって机を叩いた。その根拠のない自信はどこから来るんだとか、仕事に情熱がない割には随分熱が入っているなとか、色々腑に落ちない事はあったが、僕はもう一度宮下君に質問した。
「君は、その『読者』の中に入っているのか?」
 彼と出会った時以来触れたことのない、凄く根本的で単純な質問だ。あの時、彼は挨拶よりも何よりも先に、僕のファンだと言った。一緒に仕事をする事になって、彼は確かに僕の書く話が面白くなるように最善を尽くしてくれた。僕には考え付かないような意見もたくさん出してくれた。しかし彼が僕の為に何かしてくれる分だけ、書いているものは、僕だけが考えた話ではなくなっていく気がしていた。そして、彼が僕の話を面白がって読んでいる時間も、減っている気がした。
 仕事に情熱をもっていないなんて、嘘だ。彼は僕のための行動の数々を、「仕事」だと認識していないだけだ。
 宮下君は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして突っ立ったまま暫く動かなかった。僕もきっと同じような顔をしていたに違いない。しかし彼は静かに腰を下ろし再びこたつに足を突っ込むと、今度は子供のように悪戯っぽい笑みを浮かべて僕に言った。
「ただの『読者』じゃないんですよ! 『ファン』です! 先生の一番近くにいる、ね」
 僕の書く物語は、僕だけのものにあらず。僕の頭の中だけにあった話の種が、パソコンの画面上で文字になり、こたつの上で共有される。面白いと褒めるだけの薄っぺらい方法ではなく、時折激しくみっともない口論を繰り広げながら、ゆっくりと共有される。こたつのようにぼんやりと熱を持った、格好悪い二人の大人によって、僕の話の種は、確かに「物語」になってゆくのだ。

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