台風が来る、と天気予報で言っていた。その予報通り、雨風は段々と激しくなった。雨粒が窓ガラスを打ち、微かに家が揺れる音と風の音で、いよいよ部屋の中にいても騒がしくなってきた。
 彼はまだよく寝ている。静かに寝息を立て、台風など知らぬという顔で人のベッドを占領して。自分からおれの家に来たいと言ったくせに、一体こいつは何をしに来たんだ。
 別におれも、この雨だから予定なんかないし構わないんだけれど。彼が寝ている横に腰を下ろして、秘密を盗み見るような気持ちで寝顔を見てやる。
「いてっ」
「あ? どうした?」
 ごろん、と寝返りをうった時、壁に頭をぶつけたようだ。その音は雨音に掻き消されていたのか、聞こえなかったのだけれど。
 それほど痛くはなさそうだが、顔を覗き込むと睨まれた。寝起きだからか機嫌が悪い。そっとしておく事にする。
 裕也がこんなにも不安定な状態になってしまった理由も、変えようのない事実も、おれは知っている。
 彼には、泣く程別れの辛い奴がいる。依存する程大切に思う奴がいる。だからこそ今、身を引き裂かれるような悲しみに耐えている。それはおれになくて、裕也にあるもの。そして彼がもうすぐ、失うであろうもの。
 けれど「知っている」だけ。おれには口を挟む権利もない。そう思うと途端に虚しくなった。
「……雨、酷いな」
「え、ああ」
 いきなり話しかけられて驚きつつ彼を見ると、身体を起こして掛け布団を畳んでいた。「ベッドなんだし別にいいよ」と言うと、おれがしたいからいいの、と拗ねた口調で言われた。それがちょっと子供っぽくておかしかった。
 本当に、野球をしている時以外は、彼は子供のようだ。
 捕手は日頃からしっかりしていて、冷静で頭がいいやつばかりだと思っていたのに、裕也はまったく違う。どこか抜けているし、ちょっとわがままで頑固だし、よく宿題がわからないと縋って来るし。
 それでも野球の事になると一転、投手を支える立派でかっこ良い捕手となるのだから、ずるいと思う。
「台風来てたっけ?」
「天気予報ではそう言ってたぞ」
「明日部活休みかなあ」
「どうだろうな」
 あー、やだやだ。おれはもっと練習したいよ。
 彼は再びベッドに寝転んでそう言った。さっきせっかく畳んだばかりの布団にくるまって、雨音が聞こえないように耳を塞いだ。それはまるで、嫌だ嫌だと駄々をこねる子供のよう。けれど表情は全く真剣そのもので、悔しそうに唇を噛み締めているものだから、おれは軽口を叩く事も出来なかった。  その表情は、彼が焦っているという何よりの証拠だった。
「もっと練習したら今からでも、追いつけるかもしれないし」
「ああ」
「もう少しだけ、後の話になるかもしれないし」
「まあ、な」
 自分に言い聞かせるように呟いては頭を抱える彼に、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をした。
 表情や言葉から、すぐにでも彼が我慢の限界を迎えるだろうという事が知れた。その時が来たらおれはどういう言葉をかけてやればよいのだろう。そう考えると心なしか、手に汗が滲んできた。
 おれが今裕也にしてやれる事は、根拠のない期待を抱かせない事と、これ以上彼を不安にさせない事だけで。でもこれが結構難しくて。自分の発言には責任を持っているつもりだけれど、ただの傍観者の発言になってはいないかと、そればかりを恐れた。
 いっそ泣きわめいておれに当たっていたなら、お互いにもう少し、出来る事があったかもしれないのに。
 そう思った直後、裕也がとても小さな声で呟いた。
「おれ、もう二度とあいつと、バッテリー組めないのかなあ」
 難しい事を考えていたせいで今まで耳に入って来なかった雨音が、いきなり頭の中にまで響いて来た。強く激しい、まるで彼の心情そのもののような音。思わず耳を塞ぎたくなった。
 おれが捕手か投手なら、何か言ってやれただろうかとも思ったけれど、どうにもならない。おれは打つのが仕事だから、打たれる者の気持ちも、そいつをフォローする者の気持ちもきっとわからない。勿論、その二人の間に生まれる信頼や、絆なんてものもわからない。
「でもおれには、力がなくて」
 三年に上がると共に、裕也が正捕手から外されるという事は、既に決定した事だった。抗議は聞き入れられなかった。
 正捕手から外され補欠となる事よりも、今バッテリーを組んでいる相方の捕手でいられなくなる事が、彼にとっては何倍も辛いらしかった。当然だ、何せ二人は小学校の頃からずっと一緒に野球をしてきたのだから。
 けれどその当たり前だった居場所が、当たり前ではなくなろうとしている。
「あいつの隣は、もうおれじゃなくてもいいんだ」
 そう言って、彼は静かに泣いた。自分で言って泣くなんて情けない、と呟く。
慰めの言葉や励ましの言葉を考えてはいたけれど、結局それらは役に立たず、おれは何も言わないで黙っていた。
「ごめん、布団、ちゃんと洗って返すから」
 こんな状況でもそんな事を心配しているのが彼らしくておかしい。けれど彼はいたって真面目だ。もうこれ以上布団を汚さないようにしているのか、それともただ泣いている所を見られたくないのか、腕で涙を拭い、声を押し殺している。
 この期に及んでまだ強がっている彼に呆れたように苦笑した。もうとっくに限界を超えている事なんかわかっている。
「いいよ」
 裕也の頭の上に手を置いてそう返す。照れ臭かったけれど、どうにか彼を安心させたくて、ぽんぽんと軽く頭を撫でた。彼は鬱陶しそうに目だけをこちらに向けて、いいって何が、と掠れた声で呟いた。
 布団は別に洗わなくていいだとか、雨が酷いから今日泊まってもいいだとか、そういう意味でもあったけれど、本当に言いたい事はそんな事じゃなくて。
 単純な事だ。おれの前でくらい全部吐き出せばいい。
「いいよ、泣いても」
 驚きに目を見開いて、裕也の動きが一瞬止まった。しかし目に溜まっていた涙が頬を滑り落ちると、いよいよ耐えられなくなったのだろう、彼はくしゃりと顔を歪めてぼろぼろと涙を流した。
 遠慮もなくなったのか、布団を顔に押し付けて思いっきり泣き叫ぶ。今まで我慢していた分の悲しみや悔しさが、本人でももうどうしようもない程に溢れてきていた。それを見ているとなんだかほっとした。掌も程よい冷たさを取り戻してきて、裕也の頭がとても熱く感じた。
 一定のリズムでまたぽんぽんと頭を撫でてやると、彼の叫びは激しさを増した。けれどそれは部屋に響く事なく、雨音に流されていく。いつ治まるかわからないけれど、こうなればもう、彼の気が済むまでとことん付き合ってやろうと思った。
 そして、泣き止んだ頃には腫れているであろう彼の目を見て、思いっきり笑ってやろうと心に決めた。

企画に参加させて頂きました
タイトルは木綿さんより

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