「あなたは神様を信じますか」
「は?」
 口に出すつもりはなかった筈の間抜けな声が、喉から勢い良く飛び出した。しまった、と思う間もなく、目の前にいる面接官の女の子は再び同じ問いかけをした。
 あなたは神様を信じますか。
 一つ目から随分変わった質問だが、今の企業は面接でこんな宗教じみたことを聞くのか。それとも、この子が僕を馬鹿にしているだけなのか。二十歳くらいの彼女は何だか頼りなさそうだが、かと言って不真面目そうには見えない。彼女くらいの女の子には珍しいであろう、癖のない黒髪を左右でみつあみにしてある上に、地味な眼鏡をかけているものだから、見た目は典型的な優等生という感じである。
 けれど面接官がこんな若い子一人だなんて、一体何を考えているんだろう。この企業は給料がそれなりに良く魅力を感じたが、仕事内容が「極秘」と書かれている所からにはやっぱり少し変な所だったのかもしれない。
 受ける所を間違えたかなと若干後悔しつつ、とりあえず「はい」と答えた。どちらかと言えば神様を信じている人間に属する、というだけだけれど。
 その後女の子は暫くの間、手に持ったノートのページに視線を落としていたが、何も言わなかった。僕と彼女が座っているパイプ椅子以外机一つもない部屋の中で、ページがめくられる音だけが響いている。
 自分ではどうすることも出来ない沈黙が僕には落ち着かなかったが、彼女は涼しい顔でそれを流していた。
 やがて質問が再開される。
「そうですか。では、あなたにとって神様とは何ですか」
 頭が痛くなってきた。
 これらの質問に何の意味があると言うのか。何がわかると言うのか。いよいよ僕はこの企業を受けたことを本気で後悔し始めた。
 しかし嫌だ嫌だと言って渡って行ける世の中ではないという事は、痛い程知っている。一ヶ月前に突然リストラされ、再就職を試みるも結果は不採用ばかり。職を選んでいる場合ではないのだ。
 二十六歳で無職になってしまった僕をずっと支えてくれた妻と、半年後に生まれてくる子供の為にも、何としても僕は就職先を決めなければならない。そう今日も腹を括ってここへ来た。
 だから、面接で全力を出し切って今日こそ良い返事を貰うんだと意気込んで、僕は無理矢理この質問の答えを出そうと思考を巡らせた。
 神様という言葉を聞いたのはいつだったか。そもそも僕が神様という曖昧な存在を無意識のうちに「いる」と決め付けていたのは何故なのか。
 そこまで考えて、割とすぐに答えは出た。けれどその答えは幼稚な考えなのではないかと思えて来て、口に出して良いものかと少し悩んだ。だが質問の意図がわからない以上、正解を予想出来ないのだから、悩んでいても仕方のないことだ。
 結果、言わずに不採用よりは言って不採用の方がまし、という考えに落ち着いた。
 だから自信を持って言った。
「人間を作ったひと、です」
 僕と彼女が座っているパイプ椅子が軋む音は、僕の声に掻き消された。そして声は鈍くエコーがかかったように部屋に広がる。
 自信を持って言ったものの、目を見張っている彼女と目が合うと、途端に不安になってきた。
 やっぱりあんな答えではまずかったのだろうか。ふざけているとでも思われただろうか。
 目を逸らしたかったけれど、名前を呼ばれたので逸らせなくなった。
「三村健二さん、ですね」
「はい」
「あなたを採用します。私達と一緒に頑張りましょう」
 うぇ、と間抜けな声が出た。
 受かったのか? というか、結果は後日電話で伝えるものじゃないのか?  僕の心の声を読んだかのように、彼女は笑って言った。
「嘘ではありませんよ。弊社では、採用不採用をその場でお伝えする事にしているのです」
 どうして、とは聞かなかった。それどころではなかった。
 間違いではないし、夢でもない。本当に、僕は採用されたのだ。
「あ、ありがとうございます!」
 叫ぶように大きな声で言った。深々と礼をして、握手もした。興奮してガッツポーズしかけた手を慌てて押さえる僕を見て、彼女は少し笑いながらほほえましそうに僕を見ていた。
「では早速明日から、働いて頂きますね」
「はい、喜んで!」
 この時ばかりは、あの妙な質問の意図、その場で採用不採用を伝えられる事に対する疑問を、を再び考える余裕などなかった。

 午前七時。出勤を急ぐサラリーマン達と眠そうな学生達がひしめく電車に揺られ、予定より少し早く会社に着いた。
 しかし何をすればいいのか分からず、まず昨日の面接官の女の子を捜したが見つからなかった。
 それどころか、会社に入って大分歩き回ったが誰とも出会わなかった。人の気配がしない時点でおかしいとは思っていたけれど。
 やっと社員とおぼしき人に出会えたのは、会社に来て約三十分経ってからだった。
「新入り? じゃあとりあえずこれに着替えて」
 そう言われ渡された作業着や手袋をとりあえず身に付け、仕事場である工場の扉を開けて僕は唖然とした。
 この人達は、一体何をしているのだろう。
「おい、女の子あと三人足りねえぞ!」
「だから言ったじゃない、男の子作りすぎだって」
 騒がしい工場の入口で、僕は全く動くことが出来ずに立ち尽くしている。何をするのか聞かされていない上に、目の前の光景の一部に違和感を覚えたからだ。
 工場の中は、どこにでもある普通の工場の光景と変わらない。大きな機械や、積み上げられた段ボールも、何も違和感はない。薄い水色の作業着を身に付けて帽子を被り、更にマスクと手袋を付けている作業員も、衛生に気を遣っているだけに見える。事実、僕もそうだ。
 ただ、立ち尽くしている僕を除いた作業員全員が、赤ん坊を抱いているというのは、どういうことなのか。
 あの赤ん坊は間違いなく本物で、生きている。離れた距離から見ていてもそれくらいわかるし、あちらこちらから聞こえる泣き声が何よりの証拠だ。
 とりあえず誰かに仕事内容を説明してもらおうと、僕は恐る恐る工場に足を踏み入れた。
「おはようございます、あのー今日からお世話になります、三村ですけど……」
「もしかして昨日採用された新入りくん? あれ、意外と普通なんだ」
 地味と言いたいのだろうか。確かに僕は地味だけれど。
 帽子とマスクのせいでろくに顔もわからない人達が数人僕の周りに集まって来る。僕をなめ回すように見てくるので何だか怖い。
 きっとこの人達も僕の表情なんてわからないんだろうけれど、引き攣った笑顔を無理やり保って簡単な自己紹介をした。
「三村健二です。以前は町工場で働いてました。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。仕事内容とかこの工場については、あの子が説明してくれるから」
 そう言って一人の作業員が指した先にいたのは、採用試験時の面接官の女の子だった。工場内だからスーツではなく、僕と同じ作業着を着ていて、腕には赤ん坊を抱いている。やはり彼女もここの作業員だったらしい。
 彼女がこちらを振り向いたので目が合った。会釈すると、彼女も同じように頭を下げて微笑んだ。そうして赤ん坊を一旦別の作業員に預けてこちらに近付いてきた。
「今日からよろしくお願いしますね」
「はい、お願いします」
 さっき集まってきた人達は誰一人として名前を言わなかったけれど、彼女もやはり名乗らなかった。しかし作業服の胸ポケットに付いている名札に「鶴見」という苗字が書かれていたので、まあいいかと思い黙っていた。
「じゃあ早速この工場についてですけど、見ての通り普通の工場ではないです」
 そう言われて、もう一度ぐるりと工場を見回してみる。
 ベルトコンベアーが部屋を囲むように置かれていて、その上にはチャイルドシートのようなものが流れている。よく見ると、作業員はその中から赤ん坊を抱きかかえていた。
 妙な光景だが、そんなことが気にならないくらいおかしなものが、工場の中央にあった。さっきは全然目に入らなかったけれど。  ここって一体何を作ってる工場なんですか、と訪ねる前に鶴見さんがおかしなことを言った。
「ここは、人を作る工場なんです」
 は? と面接の時と同じような声が出そうになったが、何とか堪えた。喉まで出かかったそれを飲み込む。
 人をつくる工場と言われても、作業員の人達は中央にある普通の二段ベッドに向かって、壊れ物を運ぶようなゆっくりとした動作で赤ん坊を運び、寝かせているだけにしか見えない。この場合「作る」という表現は適当ではないと思う。
 腑に落ちない、という感情が余程顔に表れていたのか、鶴見さんは僕に丁寧に説明し始める。
「あの中央のベッドにいる子は、完成した赤ん坊、つまり産まれる直前の赤ん坊です」
「産まれる直前の?」
「はい。これはここで働く私達しか知らないことですが、母親のお腹に宿った赤ん坊は、産まれる直前までここで預かっておくんです。そして出産直前に母親のお腹に赤ん坊を転送します」
 戻すということですね、と鶴見さんが付け加えた。
 何だか現実味のないことを次から次に聞かされて、早くも僕の頭はおかしくなりそうだ。
 頭を抱えて今までの話を必死に整理していると、鶴見さんは「無理もないですよ」と笑った。今はちょっと放っておいて欲しかった。
 しかしそうすると何だ、僕の妻とて例外ではなく、本来お腹の中にいる子供がここで預かられているという訳か。そんなの、いきなり言われても信じられる筈がない。
「信じなくても別にいいですよ。あなたはちゃんと理解されています」
 鶴見さんの言い方は、まるで僕の心を全て読み取っているかのようだ。
「いやすいません、正直いきなり言われても信じられないし、理解出来てません」
「いいえ、大丈夫です」
 何が大丈夫なんだ。
 知り合ったばかりでこんなことを思うのはなんだか申し訳ないけれど、この人はどこか不気味だ。どうしてだろう、笑ってばかりいるからだろうか。それとも、心を読まれているように感じるからだろうか。
 そういえば面接の時からこんな感じだったなあ、と僕は彼女をまじまじと見つめた。
彼女はまた笑う。
「だって、あなた面接の時言ったじゃないですか。神様は人を作ったひとだって。ここは人を作る工場、いわゆる神様の工場です。あなたはもう十分にこの工場を理解している筈です」
 もう何を言ったって、何を否定したって、この人には敵わないような気がした。言葉を返す気も起こらなかった。
 しかし「神様の工場」なんて、僕はなんだか大変な所で働くことになってしまった。鶴見さんの言っていることが本当なのであれば、給料が良いのも納得がいく。疑問なのは、僕みたいな一般人がこんなところにいて良いのかということだけれど。
「あなたはここで働くべき人なんですよ」
 そう言われて僕は、せめて迷惑だけはかけないようにしようと思った。
 実を言うと、なんだか必要とされているようで少し嬉しかったのだ。
「それで、僕の仕事は何なんでしょう」
「主に、赤ん坊の体重を量ってもらいます。その後、皆さんと同じように中央のベッドに赤ん坊を運んでください」
「それだけですか?」
「はい。でも、慣れるまでは結構疲れると思いますよ」
 確かに赤ん坊は予想以上に重いらしいけれど、体重を量って運ぶだけなら前の仕事よりずっと楽だ。重いものを運ぶのは慣れているし、体力がない訳でもない。
 何はともあれ、僕にも出来そうな簡単な仕事でよかった。
 少し安心した僕は、ついでに質問してみた。
「ここで働く皆さんも、同じようなことをしているんですか?」
「主な仕事はそれですけど、皆さんただ運んでるだけじゃないんですよ。運ぶのは産まれる準備が出来た赤ん坊だけです。その前にはまだやることが山ほどありますからね」
 ということは、チャイルドシートのようなものに寝かされベルトコンベアーを流れている赤ん坊達は、みんな未完成ということか。
「心臓を動かしたり、性別や人種を選択したり」
「えっ」
 思わず目を剥いた。そんなことまでやっているのか、ここの人達は。
 やっぱり、ここに慣れるまでには相当な時間がかかりそうだ。
「いきなり全てのことを知ろうと思わなくても大丈夫です。仕事に必要なのは、赤ちゃんを送り出す心ですから」

 早いもので、僕がこの工場で働き始めてもう半年になろうとしていた。  相変わらず鶴見さんはにこにこしているし、未だにここで人が作られているということを完全に信じている訳ではないけれど、仕事自体には結構慣れた気がする。それに、この工場の決まりみたいなものもだんだんわかってきた。
 どうやらこの工場内では、名前を口に出してはいけないらしい。理由としては、万が一赤ん坊が作業員の名前を記憶してしまった場合、転送する時に母親のお腹の中に戻れない可能性があるからだと言う。元の名前に、赤ん坊の耳に入った名前が上書きされ、別の母親のお腹に戻ってしまうとかしまわないとか。これについては作業員の人達も詳しくはわからないそうで、ただ決まりに従っているだけらしい。僕もまだわからないままでいる。
 しかしこれを考えると、僕が自己紹介した時も誰一人として名乗らなかったことにも納得できた。僕は名乗ってしまったけれど、大声ではなかったので大丈夫だったと作業員の方が言っていた。
 それ以来その決まりを破らないように気をつけているのだけれど、これがまた結構疲れる。それに、赤ん坊を抱く時も傷付けないように神経をすり減らせている訳で、今になってようやく鶴見さんの「結構疲れると思いますよ」という言葉を理解した。
 けれどとりあえず、順調にやれていると思う。
 今日も同じように赤ん坊の体重を量り、記録していく。
「あ、なんかお前、あいつに似てる」
 あいつ、とは僕の妻、遥のこと。目元がそっくりだ、と大してわかりもしないことを一人呟きながら抱きかかえてベッドへと歩き出した。
 瞬間、何かに足を取られて視界がひっくり返った。まずい、と思った時には既に地面が目の前にあって、何が起こったのかわからずにただ無意識で赤ん坊を庇った。
 地面に叩きつけられる衝撃と共に、左肩から背中にかけて、鈍い痛みが広がる。それでも赤ん坊だけは強く抱いたまま離さなかった。
「痛い……」
 じわじわと継続する痛みをこらえて体を起こし、急いで赤ん坊の無事を確認する。
 赤ん坊は何事もなかったかのように静かだった。心臓もちゃんと動いている。
 どうやら無事のようだと僕は胸を撫で下ろした。
「その子をこちらに渡してください、早く」
 安心したのもつかの間、座り込んだ僕の前に、やけに険しい顔をした鶴見さんが立っていた。眉をひそめ、いつもの彼女からは想像もつかない顔だった。
「すみません、転んじゃって」
「いいから早く!」
 厳しくなった彼女の声に思わずびくりと体が反応した。
 どうしたんですか、と呟くと彼女はしゃがみ込んで赤ん坊の肩と頭を指さした。
「この子、肩に擦り傷が出来てしまって血が滲んでます。それに、頭を打って気絶してます」
 うそだろ、と赤ん坊に視線を落とすと、肩には小さな擦り傷。気絶しているのかどうかは見た目では判別できないが、鶴見さんは冗談でこんなことを言う人じゃない。
 心臓は激しく鳴り、全身から汗がふき出ていた。
 気絶しているとなると、すぐに病院に連れて行かないと命に関わる。擦り傷だってきちんと消毒しないといけない。
 急いで病院に連れて行かないと、という僕の声は彼女の声で掻き消された。
「駄目です。その子は今すぐ転送すべき赤ん坊です」
「でも意識がないんでしょう! 取り返しの付かないことになったらどうするんですか!」
「生きてこの世に産まれるか、死んでこの世に産まれるかのどちらかですよ」
「そんなきっぱり……!」
 はっきりした言葉が残酷で、彼女の目がまともに見れない。
 頭に血が上ったけれど、僕のせいだと責められまた首を切られるだろうかという不安が過ぎって、嫌になった。僕のせいでこの子が死んでしまうかもしれないのに。
 前から話は聞いていた。もしここで死んでしまった赤ん坊がいても、その子は予定通り転送され、母親のお腹の中で死んだということにされるのだと。
 しかしそれが目の前で起こりうるとなると、怖くてたまらなくなった。もしかして僕のせいで、産まれるべき命が消えてしまうかもしれないと思うと気が気ではなかった。母親のお腹の中に戻す予定を延ばしてでも、今すぐ病院に連れて行きたかった。
 けれど、鶴見さんは僕を行かせてはくれない。
「この子は今すぐ転送します。あなたは今日は大人しく帰って下さい」
「どうして……」
 わかっている。本当はわかっている。産まれる前の赤ん坊を病院に連れて行っても不審に思われることも。今すぐ母親のお腹の中に戻さなければいけないということも。
 色々なことを考えている隙に、鶴見さんが僕の腕の中から赤ん坊を奪った。
「あなたは今日一日仕事が出来る状態じゃないです」
「で、出来ます!」
 その前にその子を病院に連れて行かせてください、とは言わなかった。もう何を言っても無駄だからだ。仕事が出来る状態じゃないなんてことも、僕自身が一番よくわかっていた。
 何より、今の鶴見さんに敵う気がしなかった。
 それでも僕が帰ろうとしないから、ついに痺れをきらした彼女が怒鳴った。
「今帰らないと大変なのは、この子でも私でもなく、三村さんなんですよ!」
 ここ半年、少なくとも僕が見ていた限りでは、今まで鶴見さんが声を荒げるところなど見たことがなかった。その彼女が大声を出して怒鳴ったものだから、他の作業員のざわめきもなくなり、工場内にはいくつもの赤ん坊の泣き声だけが響いている。
 いつも笑っている彼女がなぜ、僕の為にこんなにも怒っているのだろう。一体何が大変なんだろう。
「あの、それってどういう……」
「いいから、今日は帰ってください」
 鶴見さんの声はもう怒ってはいなかったけれど、そのかわりに冷たさと有無を言わせぬ強さがあり、僕はもう押し黙ることしか出来なかった。
 不甲斐ない気持ちと、悔しい気持ちが綯い交ぜになり、もやもやしたものを結局言葉にしないまま、僕は静かに深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
 この場から立ち去ることは、逃げることと同じではないのかと思ったけれど、僕にはもう何も出来なかった。

 一体何をしているんだろう、僕は。
 情けない、本当に情けない。自分の靴紐を踏んで転び、赤ん坊を傷付けてしまうなんて、もうどうしようもない。なぜほどけた靴紐一つにさえ気付かなかったんだ、僕は。
 責めてもどうにもならないということはよくわかっている。けれど今の僕には、自分を責めることしか出来なかった。
「何でいつもこうなるんだろう」
 更衣室の中でたった一人壁にもたれ掛かり、うずくまったまま十分ほど経っただろうか。作業着を着たままではさすがに暑く、ようやく着替えようと立ち上がった。
 心なしか体が重い。この重さが赤ん坊への罪悪感からきているものなのか、自責の念からきているものなのかも、僕にはわからない。ただ、あの赤ん坊が無事ならいいな、と心から思う。
 自分のロッカーを開けて着替えを取り出すと、ズボンのポケットが光っている。そういえば携帯を入れたままだった。
 携帯を取り出してフリップを開くと、知らない番号からの留守電が入っていた。何も考えずに無心で再生する。
『三村さん早く来てください! もうすぐ赤ちゃんが産まれますよ!』
 その後もまだ言葉は続いていたけれど、僕は携帯をかばんに放り込んだ。
 このメッセージは三十分前のものだった。工場から病院までの距離を考えると、出産に立ち会うことは難しい。
 作業着を全て脱ぎ捨て、急いでスーツに着替えた。ベルトもネクタイもしないまま、僕は更衣室を飛び出した。
 傷付けてしまった赤ん坊には悪いが、嘘みたいに体が軽かった。

「あの、病院内では走らないで下さい!」
「すみません!」
 謝りつつも、妻が待つ部屋に続く廊下を全速力で駆け抜ける。
 遥は、そしておそらく既に産まれたであろう子供は、元気だろうか。出産時に傍にいてやれなかったことが悔しい。ただそればかりを考えて走っていた。
 部屋を見つけるや否や、名前の確認もせずに勢い良くドアを開けた。
「遥!」
 息を切らして名前を呼ぶと、ベッドに座っている妻が赤ん坊を抱いたまま驚いたように僕を見た。
 いつもと変わらない遥の様子に安堵し、無事に子供が産まれたという事実がとてつもなく嬉しく、その場から動くことが出来なかった。
 健二、と優しい笑いを含んだ遥の声で我に返る。
「元気な男の子だよ」
 遥の声は少し震えていて、今にも泣き出しそうだということがわかったけれど、何も言わなかった。
 遅いよ、と怒られたので謝ったけれど、嬉しさで顔が緩んでしまっていた。
「抱っこしてもいい?」
「うん」
 ベッドの端に座って、恐る恐る赤ん坊を抱きかかえる。今度は大丈夫だ、靴紐はしっかり結んであるし、このまま歩き回ったりしない。
 赤ん坊なら毎日抱いているけれど、手袋なしで直接触れるのは初めてだ。
 腕の中で、小さいながらも確かに息をしている赤ん坊は暖かくてやわらかい。心地良い体温にまた顔が緩んだ。きっと今僕は凄く情けない顔をしているのだろう。
「何か健二、赤ちゃん抱くの慣れてるって感じだね」
「まあ、ちょっとね」
 思わずぎくりとしたが、今はとりあえずうやむやにしておいた。
 実は妻には詳しい仕事内容を話していない。工場で働いているとだけ言ったら、また工場なの、と笑われた。
 家に帰って落ち着いたら、ちゃんと言おうと思っている。とても普通とは言えない仕事だから驚くかもしれないけれど、ずっとこのまま内緒にしているほうが怒られそうだ。
「それよりさ、なんかこの子に初めて会った気がしないよ」
 そう言うと遥に笑われた。きっとこの子が少なからず僕達に似ているから、そう思うだけなのだろう。
「あ、そういえばその子ね、肩に傷があるの」
 のんびりとそう言った遥とは裏腹に、僕は全身から血の気が引いた。傷があるないということではない。僕が、肩に傷がある赤ん坊を知っているからだ。
 顔をまじまじと見つめた。目元が妻に似ている。肩の傷も舐めるように見た。血は拭き取られているが確かに傷の大きさが同じだ。
 間違いない。見間違う筈がない。
 確かに、今日僕が傷付けてしまった子だ。
「どこか悪いところは!?」
 頭で考えるより先に大きな声が出ていた。遥は驚いたように僕を見て、大げさだと笑っている。
「ないよ。そのうち傷も消えるんだって。よかったよね」
 遥の言葉に肩の力が抜けた。あの時と同じように心臓は激しく鳴り、全身から汗がふき出ていた。一体今日は何度こんな思いをすればいいんだろうか。
 ただあの時と違うことは、僕が泣いているということ。
「でも、なんで傷付いちゃったんだろうね。私特に身に覚えは……って、健二?」
「よかった、本当に良かった……」
 赤ん坊を抱えたまま、僕はその場にうずくまった。
 「あの時落としてしまってごめん」とか、「傷付けてしまってごめん」とか、謝りたいことはたくさんあったけれど、上手く声にならない。
 それよりも今は、この子が今生きていること、僕の子供として産まれてきてくれたことを、本当に嬉しく思った。
「産まれてきてくれて、ありがとう……!」
 健二ばっかり赤ちゃん抱いてずるい、と遥が怒っているけれど、僕は聞こえないふりをして、もう少しだけ赤ん坊を抱きしめていた。

「昨日、子供が産まれたんです」
「他の方から聞きました。おめでとうございます。男の子ですか? 女の子ですか?」
「男の子なんですけど、それが……昨日僕が傷付けてしまったあの子だったんです。肩に全く同じ傷があって。凄い偶然だと思いません?」
「とても、素敵な偶然ですね。元気な姿をあなたに見せたかったのかも」
 静かに目を伏せた鶴見さんの睫毛が揺れた。
「……そういえばあの時、鶴見さん僕の名前呼びましたよね、決まりを破って」
 もしかしてあなたが仕組んだんですか、と冗談めかして言ってみた。根拠はないが、今の彼女を見ていると何となくそう思ったからだ。
 彼女は、どうでしょう、とわざと意味深なことを言った。やっぱりこの人はどこか苦手だと思い、僕はひそかにふて腐れた。
 そんな僕に彼女は気付いたのだろうか、彼女は僕に、屈託のない笑顔を向けて言った。
「それは、神様にしかわかりませんよ」
 それは僕が彼女と初めて会った日、握手をした時に見せたものと同じ笑顔だった。

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