「うわ、入りにく……」
 ガラス張りの部屋の中を覗けば、三十人程の学生がそれぞれ黙々と、油絵やら日本画やらを描いている。絵がほとんど描けない俺にとってそこはまさに別世界と言うに相応しく、ドアを開けなくてもわかる張り詰めた空気を感じて後ずさりしてしまう。やはり他学科の棟になんて気軽に足を運ぶんじゃなかった、と思って、後輩に用があることも忘れた振りをして立ち去ろうとした。が、
「……先輩? どうしたんですかこんなとこで」
 それは叶わなかった。いきなり声をかけられて、身体が飛び上がるほど驚く。振り向くと、映画サークルの後輩、三木が立っていた。やめろ、俺の低身長がばれるから後ろに立つな。
 三木は色とりどりの絵の具で汚れたサロペットの上にいつもと同じ茶色のカーディガンを羽織っていた。お前は何着てもそれなりに見えるからいいな、と心の中で毒づきながら、何とか平常心を保って、おう、とだけ答える。手に持った缶コーヒーを頬に当てながら、三木はまたゆっくりと話し始めた。
「誰かに用があって来たんですか?」
「お前や」
「俺に?」
「忙しいんやったら別に、今度でもええわ」
 外は寒いし、こんな張り詰めた空気が漂う作業部屋に入るのも俺はごめんだ。どうせ家が近いし同じサークルだし、話をする時間なんてこれからいくらでもある。言うが早いか、俺はその場からすぐに立ち去ろうとしたが、
「もうこの授業終わるから、皆帰りますよ」
 と三木が背中を押して部屋に入るよう促したので、俺はまた帰るタイミングを逃した。
 三木に押されるがまま部屋に入ると、色んな絵の具の匂いがした。
「その辺の空いとる椅子座ってもらえたら」
「うん」
 見慣れないものがそこかしこにある。空になった絵の具のチューブなんかも床に転がりっぱなしだ。やっぱり別世界か、と思いながら、俺は三木の隣に椅子を持ってきて腰掛けた。三木は忙しく道具を片付けている。目の前には、おそらく三木が描いたのだろう風景画がイーゼルに立てかけてあって、俺はしばらく夢中になってその絵を眺めていた。
 俺が一生かけても描けないような、綺麗な絵だ。まるで視界に映った風景をそのまま切り取ったような、そんな絵。普段何でもかんでもゆったりしている三木のイメージと何となく重なるような、暖かい色の夕焼けが描かれている。
(こいつが描く絵、好きやな)
 漠然とそう思ったが、まだ数えるほどしか見たことがない。頼めば見せてくれるだろうか。でも見せてもらって感想を求められるのは、困る。
「で、俺に用ってなんですか?」
 三木はイーゼルの隣にある机の上で筆をかき集めながら言う。俺はすぐに口を開きかけたが、近くにいる学生が席を離れるまでしばらく待っていた。しかしなかなか立ち去る気配がなかったので、仕方なく少し小さい声で告げる。
「今度、課題で短い映像を一本作んねん。話も全部自分で考えて、キャスティングも自分でやって。今までは大体グループでやっとってんけどな」
「へえー、すごい」
 ゆるい相槌。でも本当にすごいと思っているということは、顔を見ればわかるから、何でもいい。
「それで、その……俺が作る映像の、主役みたいな感じのを、お前に頼みたくて」
「えっ?!」
 三木は目を見開きながら声を上げて、手に持った数本の筆をバラバラと床に落としてしまった。
「あーもー、お前何しとんねん!」
「えっ、だって先輩がいきなり訳わからんこと言うから!」
「訳わからんとは何や!」
 お互い怒鳴りながら、床に散らばった筆を拾い上げる。部屋にいる数人がこちらを見ている気がしたが、気付かないふりをした。
 俺は拾った筆を三木に手渡してから、深くため息をつく。らしくないが、少し緊張している。後輩とは言え、頼みに来ているのは俺の方なのだ。落ち着かなければいけない。
「……もちろんお前に時間取らせるわけやから、それなりに礼はする。と、言っても、飯数回奢るくらいしか出来んやろけど。あと、演技のこととかも別に気にせんでええ」
「あの、先に言うときますけど、俺文化祭の劇すら出たことないレベルですよ?」
「そんなんええねん。ほんまに演技上手い奴に頼みたかったら、サークルの役者に頼んどる。でも俺は……お前が良かった。ようわからんけど、雰囲気とか、多分そんなん」
 課題内容を聞いて、映像作品を作るとわかった時から、何故か俺の頭の中では役者なんてとうに決まっていた。脚本も絵コンテも書かずに、ただ漠然と、三木が良いとだけ思っていた。
 三木は一瞬嬉しそうな顔をしたが、それはすぐに困り顔に切り替わった。あかんか、と思った俺は、周りに人がいるのも忘れて身を乗り出す。
「先輩やからとか今はそんなん気にすんなよ。嫌やったら嫌やってはっきり言え」
「ちゃう、別に嫌とかそういうのちゃうんです」
「じゃあ何や」
「先輩が俺を指名してくれたんはめっちゃ嬉しいです。でも俺こんなん初めてやし、先輩大変やと思う……他の人使うより何倍も時間かかると思う。やから、そういうこと考えたら何か複雑で、こういう時どんな顔したらええんかわからんくて」
「……なんやそれ」
 思わず呆れながらそう言ったが、とうとうおかしくなってきて俺は声を上げて笑ってしまった。三木は見た目によらず、案外難しいことを考えているらしい。
 でも、俺が三木を選んだのはやっぱり適当なんかではないのだ。「こういう時どんな顔したらええんかわからん」なんて言葉が自然に出てくる時点で、三木は十分他の奴と違うものを持っていると思う。
 腹を抱えて笑う俺を見て、三木はふてくされていた。「俺は真面目やのに」とぶつくさ言っている。……そうや、確かに俺なんかよりもお前はよっぽど真面目や。だから、
「お前の時間、俺にくれ」
 と、クソ真面目に返してやった。
 その後、盛大に吹き出した三木の背中に一発蹴りを入れてから、俺は逃げるようにして部屋を飛び出したのだった。

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