部屋の外からごく小さな足音が聞こえる。寝ている者を起こさないようにという気遣いが含まれた、畳を擦る足音。普段の乱暴さからは想像もつかない静かさに、俺は手元の本に視線を落としながら一人笑った。
 足音はやがて寝室の前で止まり、長い時間をかけて襖が開けられた。些細な気遣いがなんだか嬉しくて、あえて「起きてるよ」と声はかけなかった。隙間から漏れる光には気付いていただろうけれど、また灯りを付けっぱなしで寝ていると思われていたのだろう。忍び込むように部屋に入ってきた喜助が意外そうな声を上げた。
「……あれ、起きてたんか」
「おかえり。俺ももうすぐ寝るけどね」
「あ、そう」
 喜助が俺の隣に布団を敷く様子を、寝転んだまま見る。並んで寝ることが当たり前になっている俺たちの間に交わされる言葉はなく、あとはこのまま眠るだけだ。お互い夜のことを話したりはしない。全部知っているから。きっと好みの女の子なんて自分より相手の方が詳しい、そんな仲だ。でもどこで誰と何をしてても、今さら不安になったりしない。
 俺はそれが少し、誇らしい。
「寝ないのか?」
 敷き終えた布団にくるまりながら喜助が声をかけた。俺は読みかけの本を閉じ枕元に置いて、彼に笑いかける。
「ちょっと起きてたい気分なんだ」
「なんだ、それ」
「先に寝ててもいいよ」
「いや、気になるだろ」
 困り顔になった喜助を見てまた優越感に浸りながら、俺は思い出したように、隣の部屋で眠る政樹と京介を起こさないに小声で話す。
「……政樹と京介はさ、俺たちのことすっごい大人だと思ってるんだって」
「ああ、まぁな。あいつらに比べりゃ大人だろ」
「なにも歳だけの話じゃないよ。考え方とか、生き方において大人だなって思うんだって」
「大人、ねえ」
 相槌を打つ喜助は眠そうにあくびをしている。目尻に浮かんだ涙が僅かに光る。でも俺は構わず話を続けた。
「あの二人は今悩んでるんだ。昔の俺たちと同じところでもがいてるんだよ。なんか、それが微笑ましくってさ。二人が子供って言うわけじゃないけど、悩んだ時間は無駄じゃないよ、って教えてあげたくなるよね」
「親みてぇなこと言ってんなよ。老けるぞ」
「そんな大袈裟なもんじゃないさ」
「だいいち、あいつらは『兄弟』って関係だ。誠実で嘘がつけない、目に見えるほど確かなもんだ。俺たちみたいのとは違ぇよ」
 やはり喜助は人のことをよく見ている。なんにも考えず人と接しているようで、実は誰よりもその人の本質を見抜いている。
「それ、本人たちに直接言ってやりなよ」
 そう言って、珍しく真面目なことを考えている喜助を茶化すと、彼はばつの悪そうな顔をしてあお向けになった。言えるかよ、という小さな声が耳に届く。彼は、二人の前では「脳天気で馬鹿な兄貴」でいたいのだ。本当は俺よりもずっと気の利いたことを言ってやれるはずなのに。
「まぁいいさ。喜助が本当は誰よりも心の動きに敏感なやつだってことは、いずれ二人にもばれるだろうよ」
「勘弁しろ、真面目はもうたくさんだ。俺は寝るからな」
 つまらなさそうに吐き捨てると、喜助は今度こそそっぽを向いた。俺はそれを見て笑いながら灯りを消す。
「でも、出来ることなら内緒にしておきたいな。本当のおまえを知るのは、俺だけで十分だ。そうだろ?」
「……安心しろ、お前といるときゃ何も考えちゃいねぇよ」
「うん、俺もだよ」
 今度こそ、寝付くまでの間、妙な沈黙が横たわる。もっと何か言いたいような、言いたくないような。けれど口に出さずともわかっていると思って、目を閉じる。
 俺たちは、誰かに信頼される自分を誇りに思う。政樹と京介もはやく、それに気付くことができればいい。そうすればきっと、彼らは俺たちよりももっと「大人」になれる。
 おやすみ、とごく小さな声で呟いてから、俺は朝を待つために、おだやかな眠りについた。

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