夕餉を食べ始めてから一度も口を開かず、ただ箸と器がたてる音が響くのを聞きながら食べ物を口に運んでずいぶんと時間が経った。この人は無口だと知っている。マチ自身もそれ程話す方ではないし、信頼できる相手となら沈黙も苦にはならない。だが二人で向かい合っているなら話は別だ。
 少し顔を上げると、一人の男が目に映る。もしかしたら、自分の父親に見えるかもしれない程には歳の離れた男。跳ね上がっている短髪を無理に後頭部で束ねて、時々大きな手で、違和感を拭うように短い髭を撫でている。いつだったか、確か出会ってすぐの頃、何の気なしにマチが「若く見える」と言えば、彼はいじけて髭を伸ばしたままになった。いつまでたってもあまり伸びない髭を生やしてもやはり男は若く見えたが、マチは黙っている。はじめて唇を重ねた時、顔を背けて照れくさそうに髭を撫でる男を見て、それさえも愛おしくなったのを今でもまだ覚えているからだった。
 いろいろ考えているうちに、マチは男――時次郎を見つめたまま箸を止めてしまっていたらしい。時次郎が口に含んだものを飲み込んで言う。
「どうした、おれの顔に何かついてるのか」
「あっ、いえそうではなくて」
「食欲、ないのか」
「そういうわけでも、なくて……」
 ふと時次郎が顔を上げたものだから、しっかり目が合ってしまって、急に恥ずかしくなってマチは顔を逸らして口ごもってしまった。確かに会話がなくて気まずいとは思っていたが、これはこれで少々苦しい。まさか勝手に思い出して恥ずかしくなったなど言えるわけもない。
 マチはわざとらしくこほんと咳払いをして、拗ねたように言う。
「いつもの事ですけれど、静かだなあと思いまして。何かお話して下さってもいいじゃありませんか」
「何かって、例えば何だ」
「もう、そういうところ、ほんに時次郎さんは面倒くさがりなんだから。そんなの、些細な事でいいんですよ」
 再び夕餉に箸をつけて、やけになったように食べ進めていると、どうやら口に食べ物が含まれているせいで頬を膨らませて怒っているように見えたらしい。一足先に食べ終えた時次郎が腕を組んでため息をついた。
「怒るなよ。おれが無口なのは今に始まったことじゃないだろう」
「でも、わたしもっと時次郎さんの事が知りたいんです。せっかく一緒に暮らしているのに、あなたの事何も知らないなんて、寂しいじゃありませんか」
「おれだってあんたの事そんなに知ってる訳じゃないさ」
 そう言われるともう黙るしかなかった。マチだって、肝心な事はほとんど時次郎に話していない。でも、そういうことじゃないのだとマチは俯く。時次郎はいよいよ困って、マチの顔を少し覗き込んで眉をひそめた。
「なんだ、おれの何が知りたいって言うんだ」
「……別にね、今まで何をしてきたのかなんて聞くつもりはないのです。ただ、好きな食べ物とか、行きつけのお店とか、そういう些細なことが知りたいのです」
「そんなことでいいのか」
 そんなことだなんて、とマチが声を上げる。今までマチの方から聞いてみても「何でも食べる」や「特に決まってない」というような曖昧で面倒くさそうな答えしか返って来なかった。少しでも恩返しがしたいのに、食事で満足させる事も出来そうにないとマチが落胆していたのを、時次郎は知らない。
 またマチが視線を落としたのを見て、時次郎がため息混じりに言う。
「にぎりめし、だ」
「え?」
「あの日貰ったにぎりめしは美味かった。おれは、あれがいいな」
 へにゃりと口を曲げて頭をかきながらそう言った。小さい声だったが、この距離なら聞き逃す筈がない。いや、この人の言葉なら、どんな些細な事だって聞き逃しはしない。マチはそう思った。
 嬉しさを隠し切れず、すっかり笑顔になったマチが言う。
「わかりました! わたし、今から作ります!」
「えっ、もう食べ切れないぞ。おいっ」
 この落ち着いた男が、冷や汗垂らしながらにぎりめしの山を見つめる事になるのは、次の日になってからの話だ。

戻る