ある冬の日の出来事。
 その日は雪が降っていた。前の日も、その前の日も、決して太陽を覆う事はなかった雲が、この日は空一面に広がっていた。
 天気も手伝って見通しの悪い山の中、それも斜面で、がちゃがちゃと具足が揺れる音がする。しかし二、三何かが倒れる音を最後に、辺りは静かになった。
 音源の近くに、東国の具足を付けた雑兵が三人と、その中心に西国の武士と思しき男が一人。
「あんたら、それ以上喋るなよ」
 男は、自らが右手と短刀だけで気絶させた雑兵達にそう吐き捨てた。
 たった今加勢として駆けつけた西国の武士――平次郎には、「それ」の内容がわからない。今どんな状況であるかもわからない。わかるのは、中心にいる男が雑兵達に追われていたのだろうという事くらいだ。まあなんにせよ、東国の者を始末してくれたのなら平次郎としては儲けだ。
 なんとなくその場から離れられずにいると、ふと男と目が合った。
「おい、逃げるぞ」
 まるで共に追われている身であったかのような口ぶりだ。平次郎はむっとして顔をしかめたが、男は気にせず木々を掻き分けどんどん山へ入っていく。
 追われてたのはお前だけだろ、と思いつつ平次郎は男の背中を見やる。その背中は殺気を纏うでもなく、しかし気を許している訳でもなく、何ともいえない存在感を放っていた。
 このまま放っておいてもよかったのだが、どうにも男の行く先が気になって、平次郎は男の後をついて行った。

 男は先程の場所から離れると、岩に腰を下ろし無言で握り飯を食い始めた。編笠を膝の上に置いて、左手は怪我を負っている為力が入らないのかぐったりと地に向かって垂れたまま動かない。右手に付いた米粒をまでもを一粒残らず口に含む姿を平次郎は隣でずっと見ていたのだが、食う事に余念がない男は彼の視線など全く気にしていないようだった。
 余程信用していないのか、それともただ純粋に食う事に忙しいのか。どちらにせよ、平次郎の苦手なタイプであった。測れないからだ。
「お前、名は何だ」
「時次郎。あんたは」
 問いかけると、意外にもあっさり答えた。その上こちらに向けた目は酷く穏やかだったものだから、平次郎の方が反応に困ってしまった。てっきりこちらを警戒していると思っていたのに、目は灰色を帯びて尚透き通っている。人の目など気にかけた事もなかったが、なるほどこの時次郎という男は、平次郎が今まで出会った者の中でもかなり特異な存在らしい。
 そこまで考えた後、ははあ、と平次郎は一人で納得し小さく笑った。時次郎は目を丸くしている。
 時次郎と平次郎。名前が似ている事と、あと一つ。平次郎は思慮深い性格であったので、些細な事でもあれこれ考えてしまう。だから返事に時間がかかってしまっていけない。
「ああ、平次郎だ。そういやお前、なんで追われてた」
「おれが東国の裏切り者だからだ」
「えっ」
 時次郎があまりにも飄々と答えるものだから、驚いて間抜けな声が出てしまった。
(馬鹿か、こいつ)
 思った一言目がそれだった。
 この時普通の武士ならば間違いなく、すぐさま時次郎の首を落とそうとする事だろう。裏切り者であれ、西国と敵対する東国の者に違いはないのだから。
 しかし平次郎は動かなかった。彼もまた普通ではなかったらしい。
 思えば、時次郎を特異な存在と認めたにも関わらず警戒を怠った時点で平次郎もどうかしていたのである。
「あんたもおかしな奴だな。仮にもおれは東国の者だ、斬ろうとはしないのか」
 驚いた。自分の身の内を明かしただけでなく、敵をその気にさせようとしている。ここまでくるともう、大馬鹿か大者二つに一つだ。
 けれどその言葉に裏はない。思った事をただ口に出しているだけらしい。
 これは平次郎の経験による話だが、馬鹿正直な者とは大概、人を惹きつける何かを持っているものだ。馬鹿正直と言っても、不思議と人を不快にさせる事は少ない。そして人徳、強さ、優しさ、人と違う何かを持ち、けれど決して驕らず自分の道を貫いて行く。
 時次郎は当にそれだ。たった二言三言交わしただけだが、平次郎の人を見る目に間違いはない。
「いいな、興味が沸いた。少し話をしようぜ」
「話? 何を話す」
「お前が裏切り者になった理由が知りてえ」
 時次郎が本当に大者であるのならば、東国を裏切った理由も大それたものだろうと思ったのだ。
 すると予想通り、耳を疑うような事を口にした。
「西国の姫様を奪った。というと語弊がありそうだが、とにかく、西国から逃がした」
 この瞬間、いきなり立ち上がった平次郎が勢い良く抜刀した。白刃が時次郎の頭上を掠める。
 平次郎は髷を落とすつもりでいたが、時次郎の反応が早く、体勢を低くしてかわされた。次に見た時にはもう彼は抜刀していて、使えない筈の左手で力強く鞘を握りしめていた。馬鹿正直であるくせに、左手が動かないふりは嘘だったらしい。
 しかし平次郎がいきなり仕掛けたにも関わらず、その目は尚も穏やかだ。
「おい、話をするんじゃなかったのか」
「話だけをすると言った覚えはねえ。大体元はと言えば、喧嘩ふっかけてきたのはあんただぜ」
「何の事だ」
 それについては、何も答えなかった。時次郎が理解していないのであればその方が都合が良いのだ。
 二人は座っていた岩から静かに離れ、六尺の間合をとり、平次郎は中段に、時次郎は下段に刀をとった。
 そのままぴたりと止まる。
 時次郎が薄く吐き出した白い息が空に向かって溶けてゆく様子を見て、平次郎も長く息を吐き出した。
 一閃。
 僅かな太陽の光が、刀に反射してぴかりと光った。平次郎は編笠を地面に落とすと同時に間合いをつめる。時次郎はその場から動かずに少しだけ右膝を曲げ、衝撃に備えた。その時にはもう、二人の距離は一尺程に縮まっていた。
 平次郎は相手の刀を折るつもりで、驚くべき速さで自分の刀を跳ね上げた。時次郎も咄嗟に刀を空へと突き上げ、斬撃を鍔元で受け止めた。彼の頭のすぐ上で刀が交わっている。
 腕を上げたままでは力を入れる事が難しく、時次郎は体勢を整える為にゆっくりと刀を下に引く。しかし平次郎も同じように動いた為、ぎい、と鉄が擦れる鈍い音が響いた。お互いの僅かな呼吸でさえ、鼓膜が震えるように感じた。
「可愛げがねえ奴だろ、あいつは」
 今度は時次郎が無言になる番だった。
 平次郎は嘲笑いながら、更に力を強め圧力をかけていく。負けじと時次郎も押しのけようとするものの、地面が雪で濡れているせいもあって足場が安定しない。ざり、と草履が滑ったのを見て、時次郎は咄嗟に力を抜きその場に身を沈めた。
 急に力を抜かれて、平次郎は弾かれたように二、三歩前へと飛び出した。その隙を狙って、屈んでいた時次郎は立ち上がり身体を少し捻ると、平次郎の腹を思い切り蹴った。見事、脇腹に命中したがいかんせん力が足りない。それでもやはり痛みを感じる事に違いはない。平次郎はすばやく飛び下がる。
 今度は時次郎が間合いをつめた。構えさせる隙を与えず、次々に刀を浴びせてゆく。飛び退く暇もない。
 しかし防戦一方に見えた平次郎が刀を激しく打ち下ろすと、汗で滑ったのか、時次郎の刀ががしゃりと地面に落ちた。隙ありと言わんばかりに斬りかかると、時次郎は腰間から抜き取った鞘で咄嗟に刀を受け止めた。だが所詮は木で出来た物、長くは持たない。次の強烈な一撃で、それは折れた。
 時次郎が座り込んだ。
(今頃怖気づいたか)
 誘われるように時次郎に覆いかぶさって片膝を付き、白刃が相手の首元を捉えた時、我に返った。
 ひやりと、無機物特有の冷たさが、平次郎の首元にも伝わった。
 怖気づくなどとんでもない。出会った時とは全く違うぎらぎらと光った灰色の目が、真っ直ぐにこちらを見据えていた。そしてその右手に握られた短刀の刃が、同じように平次郎の首元に当てられていた。
 初めて時次郎が笑って、言う。
「どうした、落とさないのか。今なら抵抗はしないぞ」
 つ、と首の皮膚が切れるのを感じた。言っている事とやっている事が違う。平次郎が少しでも動いたら、殺すつもりでいる。
「参った」
 平次郎は笑って刀を手放した。空になった両手をひらひらと振ると、仕舞え、と時次郎が鋭い目だけで指図した。言うとおりにして立ち上がると、彼も短刀を鞘に収め懐に仕舞った。
 緊張の糸が切れたのか、時次郎は口を開け間抜けな声を出して大きな欠伸をした。目はもう穏やかになっている。
 なんという不思議な男だろう。平次郎は思った。
「早く帰ってやれ。待ってんだろ、姫様が」
「おれを逃がしていいのか」
「勝てる気がしねえや」
 姫を奪うという大罪をおかした者を見逃すなどもってのほかだと思ったが、平次郎も西国を放ってどこかで隠居するつもりでいたので、どうでも良かった。むしろこの場合、時次郎を殺す事の方が罰当たりな気がした。
 知らぬ間に雪はすっかりやんでおり、濡れた地面は草履が擦れた跡で所々荒れている。そこに時次郎の刀と折れた鞘が、二人に取り残されたように転がっていた。鞘が使い物にならないのだから刀は持って帰る事も出来まい。
 やがて時次郎は自分の刀を拾い上げ大きく振りかぶると、ざく、と地面に思いっきり突き立てた。
「あいつはあんたが思ってる程、可愛げがない奴じゃない。憎たらしい娘ではあるがな」
 それだけ言うと、走って山を下りて行った。
 平次郎は彼の背中が見えなくなると、再び岩に腰を下ろした。そういえば今日は初雪が降っていたのだと、寒さを改めて実感して手を擦り合わせた。赤くなった指先に吐いた暖かい息も、白くなって空気に溶けた。
 憎らしいと思っていた存在の無事を密かに喜んでいた先程の時間が、既に遠い過去の記憶になろうとしている。雪のように溶けてなくなる訳ではない。人の顔や名前がなかなか覚えられない分、覚えてしまえば決して忘れられないのだ。
 そっと、平次郎は目を閉じる。
 今夜夢に見る彼女の隣には、穏やかな灰色の目をした男がいるのだろう。

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