艦から離れて、しばしの休暇。艦内に響く命令も、砲による身体が飛び上がるような強い衝撃もない、平和な日々。街中で神経を研ぎ澄ます必要がないことはよくわかっている。しかし「いつか来る戦争の時のことなんて忘れて都市を満喫してこい」という上官の言葉通りにいかないのが、軍人というものだった。上官も軍人なのだから、そんなことは嫌と言うほどよくわかっているのだろうが。
 街を歩いていても鼻歌を歌う気さえ起こらない。何か気を紛らわせるものはないかと探してみても、趣味を持たない坂本に思いつくことと言えば「何かを食べる」ことくらいだ。あてもなく歩いていると道の端にラーメンの屋台を見つけて、自分が今からラーメンを食べることを想像する。そんなに腹は減っていないが一杯なら余裕だろう。ぼんやりとそう思えばもうすっかり気持ちは食べることに向いて、無言で屋台の方へ歩いていく。小さな足音もそれに付いてきた。
 先客はいなかった。屋台の店主は暇そうな顔をしてラジオを聴いていたが、坂本が無言で席につくと両の掌を広げて、「いらっしゃい」と言って彼らを受け入れた。人当たりのよさそうな笑顔を見て坂本は満足した。
「普通の、一つ」
「チャーシュー麺になっけども」
「ああ、じゃあそれで」
「隣の兄ちゃんは?」
 店主がそう聞いたことで坂本はようやく隣の大和を見る。方肘を付いて呆れた視線を送っていたが、彼はそんなもの痛くも痒くもないようだった。
「俺もチャーシュー麺」
「はいよ。じゃ、とりあえずお冷とおしぼりな」
「ありがとう」
 男としてここにいるのだから当たり前だが、大和の性別になんの懐疑心も抱いていない店主に「こいつは女だよ」と言ったらどうなるのだろう、とぼんやり思う。きっと驚くのだろう。誰だってそうなのだろう。坂本だって初めて聞いた時は嘘だと思った。
 性別なんて大した問題ではないと今まで思っていた。けれど軍人である以上、戦うのは男と決まっている。生まれてくる時に自分の意志で決められないそれは、しかし確かに自分の役割を決めてしまうものなのだ。
「お前は気にしとらんのだろうがな」
 店主が出してくれたお冷に浮かぶ、こまごまとした氷を眺めて呟く。
 大和が女と知っているのは、軍上層部と女王、それと坂本くらいなものだ。暴露してしまえば大和の立場が悪くなるのは自明なのに、彼があまりにも堂々としているため弱みを握っている気がしないのが不思議だった。
 そんなことよりも、と坂本はコップの水を煽った。当たり前だが酒ではないため物足りない。
「なーにが楽しくて休日までお前といっしょに過ごさにゃならんのだ」
「勝手にしろって言われたから」
「言わなくても付いてきとったんだろうが」
「休日はどうにも暇なもんで」
「だからってなんで俺と飯食うってとこに辿り着くんだ」
 しばし無言で麺を茹でていた店主が、一定のリズムで行われる言葉のキャッチボールを聞いて朗らかに笑った。
「あんたら兄弟かい、仲良いねぇ」
「いや、違うから」
 否定してから咄嗟に大和を見たが、彼はいつも通り無表情のままであった。
 正直、大和と居て楽しいと思う瞬間はない。なにせ彼は感情が薄くて無口だった。いっそ女らしい振る舞いの一つくらいしてくれれば可愛げもあるというものだが、そういうこともない。きっと全裸を目の当たりにしても事実を疑ってしまうだろうと思うほどに、彼は男だった。
 坂本は上着のポケットから煙草を取り出して口に咥えた。そして尻のポケットからライターを取り出しながら大和に問う。もちろん、店主には聞こえないような小さな声で。
「なあお前、軍に入ってから人を殺したか?」
「いえ」
「どうして」
「どうしてって」大和は腕を組んで俯き、目だけをこちらに向けて声を潜めた。「馬鹿なこと言わんでください。俺らが入ってからここ最近まで訓練しかしとらんかったこと、艦長が知らないはずないでしょう」
「そりゃ正論だ」
 目の前の店主が麺を湯切りし始めたから、煙草に火をつけるのはやめた。
 坂本はおしぼりの横に煙草を置いて、僅かに息を吸い込む。風に乗った湯気が顔に当たって目を細める。背筋が伸びる。
「なら、いつか人を殺せるか?」
「命令のためなら」
「それも正論だな」
 必死に腕を振り上げて湯切りをしている店主には、この物騒な会話が耳に入らなかったらしい。間もなくして二人の前にはきれいに盛り付けられたチャーシュー麺が置かれた。ぱん、と掌を叩き上機嫌に言う。
「はいよ、チャーシュー麺お待ち!」
「ありがとう」
「いただきます」
 二人は僅かに微笑みながら手を合わせた。しかしその時坂本は、自分への激しい嫌悪感に襲われていたのだった。
 それでも一切態度には出さずに箸で麺を持ち上げる。ふっと気休め程度に息を吹きかけてから口に運び、音を立てて麺をすする。口内に広がった旨味を噛み締めて嚥下し、また同じ行為を繰り返す。チャーシューだけが残ってしまわないようにバランスよく交互に食べ進め、身体の中心から広がる熱に気付いたら水を煽った。冷たい感覚が身体に落ちていき、それがなんとも言えず気持ちいい。
 坂本はただひたすらに目の前のものに喰らいつき、食べるという行為に没入した。それが自己嫌悪を消すための唯一の方法だと知っていたからだ。
 軍人になってから味わって食べることが少なくなったし、食べること自体も自然と速くなった。食べるという行為は生きる目的ではなく単なる手段に変わった。今もまた、急ぐ理由など何もないのに一心不乱に麺をすすっている。
 気付けば器の中身はスープだけになっていた。揺れる液体をほんの数秒見つめてから、器を持ち上げて一気に飲み干す。喉が動くと同時に身体の中に温もりが蓄積される。それは今日も変わらず坂本に生きている感覚を与えた。最後の一滴は、目を閉じて味わったつもりだ。
 器を静かに置いて、残っていた水を飲み干す。この冷たさと熱さが循環していくような錯覚が面白くて心地良いのだ。この前そういうことを副官に話したら、変な人ですね、と笑われたのは不本意だが。
 坂本は上着のポケットに手を突っ込んで、乱雑に折り畳まれた札が二枚あるのを確認すると、
「そこの男の分も入ってる。釣りはいらんから。うまかったよ、ごちそうさま」
 と半ば無理矢理店主に金を手渡して足早にその場を去った。わざと「男」という単語を強調したが、大和はやはりなんとも思っていないようで、奢りに対して右手を上げて応え涼しい顔をしていた。
 置いていくつもりで後ろを振り向くことなく歩いていると、一分も経たぬうちに大和が追いついてきた。彼もマイペースなので、決して走ってはこない。置いていかれたらそれはそれでいいと思っているのだ。
 つくづく二人は変な関係だった。仲の良い男女と言うには程遠く、上官と部下と言うには繋がりが薄い。一緒にいて心地いいのかと言われれば別にそういうわけでもない。けれど大和は存外義理堅い人間だから、
「ごちそうさまです」
 と必ず言いに来るのだ。いつか飯を奢ってやったときもそうだった。そういうところは、嫌いではない、と坂本も素直に思う。
 帰ってすぐ寝るにはまだ早い時間だった。飲みに行くにもきっと大和がついてくる。ちっぽけなプライドだとはわかっているが、彼が自分よりも酒豪であることを知ってしまっては一緒に飲みに行くことは避けたい。
 歩きながらふと大和を見ると、たまたま視線がぶつかった。性別のせいか背は低いため、坂本が見下ろすような構図になる。
「これ、忘れてましたよ」
 一本の煙草を差し出された。別によかったのに、と思いながら、「やろうか」と言ったが大和は黙って首を振った。
「自分には良さがわからんので」
「捌け口は多いに越したことはないぞ」
 ポケットからライターを取り出して、風で揺れる赤を守りながら煙草に素早く火をつける。先端にじわりと広がった様子を見つめて、坂本は立ち止まった。大和もそれに合わせて足を止めた。
「艦長は、人を殺したことがあるんですか」
 ゆっくり吸って、薄く吐いて。数回繰り返してから目を伏せた。
「あるよ」
「どうして?」
「命令だから、だよ。正論だろ?」
 今更動揺するようなことではなかったから、淡々と答えた。国を守るという建て前に、逆に守られているのが自分たちなのだと坂本はとっくの昔に気付いていた。
 大和がそのことに気付くのはいつになるだろう。明日かもしれないし、来週かもしれないし、もしかしたら永遠に来ないかもしれない。
「お前は、なんて答えるんだろうな」
 同じ場所に来ないと、同じ条件を満たさないと、絶対にわからない気持ちがある。それは性別や年齢とは全く別次元の事柄だ。けれどその条件が戦場において一番大事だったりする。
 一線を越えたものにしかわからない何かが、あの場所には確かにあるのだ。

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