暇があればどこにでも付いて来る。わからないことがあればなんでも尋ねて、使いすぎてよれた手帳に書き記す。言いたいことは真っ直ぐ目を見て意見し、たとえ相手が上官であろうと怯まず噛み付く。
「俺をあなたの弟子にしてほしい」
 ただの水兵にそう言われたのが全ての始まりだった。
 その時彼に一体なんと答えたのかは、もう覚えていない。

「艦長、坂本艦長ー! 大和見ませんでした?」
 甲板で煙草をふかしていた坂本を見つけて、駆け寄ってくる兵士が一人。とうに就寝時間を過ぎたというのに一体誰だと目を凝らせば、それは同じ村出身で年の離れた後輩・柴又だった。
 柴又は坂本の前で立ち止まるときょろきょろと辺りを見回した。
「ここにもいないなんて。珍しいですねえ」
「騒がしいな柴又」坂本は柴又に向かって目一杯煙草の煙を吐き出した。むせ返る彼を無視して続ける。
「何を考えとるんだ、今は就寝時間だぞ。大声を出すんじゃない」
「あはは、すみません、艦長」
 涙目になっているのか、暗闇の中で柴又の目元が光った。彼は気の抜けた声を出して坂本の隣に移動すると、海を眺めるように欄干にもたれた。坂本もつられるようにして再び外に目を向ける。眼前の広大な海に落ちる月の光は、少しぼやけていた。
 一息ついてから、柴又が先ほどよりも軽い口調で話し始める。
「そうだ坂本さん、大和。大和がおらんのですよ。便所行こう思って起きて、ふっと横見たらおらんもんで、坂本さんとこじゃろなあ思ったんですが、ここじゃないなら捜しようがないですかねえ」
「柴はそんなあいつと仲良かったか」
「ええ、同期の桜ですけどまあ友達みたいなもんですよ。海軍大学の頃からずっと仲もええんです」
 ふうん、と坂本は意外そうに返事をした。あいつにも一応友達がいたんだな、と思っている。
 坂本と柴又は幼い頃から家が近所だったために、軍に入るよりももっと前からお互いのことを知っていた。ゆえに埋められるはずのない階級差を無視して、他の兵士がいない場所では「坂本さん」「柴」と呼び合っている。名前の通り柴犬のように人懐っこい男だから、砕けた呼び方にいやらしさを感じない。
 あいつが道を踏み外さなかったのは柴又の功績かもな、と心の中で呟きながら、坂本は煙草を吸って軽く目を閉じる。
「うーん、訓練終わってから今日は一回も俺んとこ来とらんな。自分で言うのも変だが珍しい」
 以前までは一人でいるのが当たり前だったから、大和に「ついてくるな」とか「一人にしてくれ」と言って何かと避けていたが、驚くことに最近では大和がいることが不自然ではなくなっていたのだろう。いなければいないで、珍しいと思ってしまう。
 しかし面白みのないことを言ってしまえば、大和は必ずこの艦のどこかにいるのだ。戦争中でもなし、海に飛び込む理由はない。身を投げるほどの死にたがりではないとも知っている。
 最近ではすっかり思考が似てきたと感じていたため、坂本は口をへの字に曲げて答える。
「まあ、あいつだって一人になりたい時もあるだろ。退屈しとるっちゅうのもあるし」
「退屈?」
「あー……」
 こういうことがわかってしまうほど、一緒にいたのだと思い知らされる。他人には説明しなければわからない。
「訓練ばっかりで実戦がないだろ。あいつは戦いたいんだよ。人を殺したいっちゅう意味じゃなく、自分が生きとると思いたいんだ」
 言いながらちらりと柴又を見てみたが、やはり理解出来ないといった顔をしている。それが普通だよ、と坂本は彼の背中を叩いた。昔の自分を見ているようだったから、蔑ろにはできなかった。
 煙草をくわえて、手袋を外す。掌が外気に触れて涼しさに目を細める。煙草を指でつまんで大きく息を吐き出せば、ぼやけた月の光と煙が一瞬重なって見えた。
「柴ァ」坂本は気の抜けた声で彼を呼んだ。
「艦長になっても、まだまだわからんことだらけだなあ、この世界は」
「あはは、珍しいですなぁ、坂本さんがそんな抽象的なこと言うんは」
 何を言っても柴又は大体笑って返してくれる。坂本は彼のそんなあっけらかんとした明るさに助けられていた。それは坂本にも、そして大和にもない彼の大きな魅力の一つだと感じる。
 ポケットから煙草を取り出して柴又に差し出すと、彼は少し悩んでから、小さく手を上げてそれを断った。そして、
「大和にやってみてください。あいつ煙草吸ったことない言うとったから」
 とにやにやしながら去って行った。
 再び一人になって、坂本はその場に座り込む。海と空が、欄干によって写真のように切り取られて見える。止まっていたのか進んでいたのかよくわからなくなるほど、海は穏やかに涼しげな音を立てながら視界を揺らし、雲は形を変えながらひどく緩やかに流れていった。似たような景色をもう何度眺めたかわからない。あまりに目にしすぎて、飽きただとか、好きだ嫌いだとか、つまらないとか、もうそういう段階ではなくなったように思う。
 ふと思い出したようにポケットから携帯灰皿を取り出して上蓋を開く。穴に煙草を入れてから、いつもより本数が少ないことに気付いた。なぜだ、と顔をしかめてからすぐにその理由に辿り着き、眉間の皺が更に深くなる。
「ガキか、俺ぁ」
 坂本は吐き捨てるように呟く。煙草をやめろと言われるたび意地を張って余計に本数を増やしていたことを大和に教えれば、あいつは俺の弟子をやめてくれるかなと、適当なことを思いながら立ち上がった。

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