「お時間でございます」
 その日、いつもと同じ落ち着いた声を聞いて少年は目を覚ました。寝台を覆う天幕が眼前に広がる。真っ赤に染め上げられたその帳は大部分に金色の装飾が施されており、少年の目と同じ色をしていた。大胆に刺繍された金色の獅子と目が合った気がした。
寝台の傍に控える者に目覚めを知らせるように、少年はやや大袈裟な音を立てて起き上がる。軽く柔らかな布団を押しのけ、地に足をつけて立ち上がった。寄木細工の床は、裸足には心地良い冷たさだった。
 天幕の合わせを開いた瞬間の眩しさもまたいつも通りで、少年は顔をしかめた。寝台を挟むようにして左右対称に配置された、四間はあろう大きな窓から入る朝日が、両側から彼を照らしていた。
 寝台を出ると、やはり控えていた侍従長が辞儀をした。精悍で鋭い眼光に似合わぬ優しい微笑みを浮かべているこの男は、少年が物心ついた時からすでにこの家に仕えている男だった。それだけに無条件に信頼しており、少年は満足げに頷くだけで何も言わずに彼の前を通り過ぎた。一歩踏み出すごとに少年の着流しの袂がひらひらと揺れた。
 寝室の左方にある洗面台で少年が顔を洗っている間、侍従長は慣れた動きで机に朝食の準備を整える。やがて洗顔を終えて戻ってくる少年を、彼は肘掛け椅子を引いて待っていた。その目線がいつもよりほんの少しだけ低いことを少年は見逃さなかった。
「どうした、言いたいことがあるなら今申せ」
 この侍従長はたいへん正直な人間で、繕う様子もなくあからさまに口をへの字に曲げた。歳を重ねるにつれて随分丸くなってきたものだ、と少年は内心そう思っている。
「……起床の儀にてお耳に入れるのはいかがなものかと思いまして」
「訃報か?」
「はい、陛下。そうではありません」
 彼は上官に対する真っ向からの否定を避けた。軍特有の答え方である。
 少年は早くも興味を失ったのか、鼻を鳴らして椅子に深く腰掛けるとすぐにバゲットにかぶりつく。食事の作法に関して彼はまったくの無頓着であった。王としての振る舞いを彼に教え込んだ侍従長でさえ、これだけはお手上げだと言わんばかりに顎髭を撫でている。
 広い寝室に少年の咀嚼音と、食器がぶつかる音だけが響く。嚥下した後、少年は側に控える侍従長に笑いかける。本当に気を許している者だけに見せる無邪気な子供の笑顔そのものであった。
「起床の儀でそのようなまどろっこしい答え方をするなどお前らしくない。申してみよ。総司令官としての私にではなく、王としての私に」
 燃えるように赤い短髪と、濁りなく光る金色の目を持つこの少年こそが、グリムラント大陸最小国家・フェレオルの国王であった。彼が十二の時、父である先代の王が散華したことにより王として親政を開始し、同時に総司令官として軍隊の指揮も行った。以降十五になった今もその体制は変わらず、彼の教育係とも言える侍従長も、少年の王たる振る舞いが実に堂に入ったものだと感心するばかりである。
 王の言った通り、侍従長は今彼を上官として見ることをやめ、先程よりもくだけた雰囲気で話し始めた。王に対してというよりは、気の置けない主人に対してという様子である。
「幽霊を、捕らえたとの報告が届きまして」
「幽霊?」
 王は再びバゲットにかじりつきながら驚いた声を上げたが、やがてそれを飲み込むと朗らかに笑った。真面目で現実的な侍従長の口から、まさか『幽霊』という言葉が飛び出そうとは夢にも思わなかったのだ。
「お前も冗談を言うようになったのだな。良いことだ。なかなか面白そうな話ではないか」
「冗談ではありません。しかし報告をしてきた兵士も状況がよくわかっていないようで」
 普段から良く気付き良く働くこの男にしては、なんとも無意味で歯切れの悪い物言いであった。
「何をもってその者を幽霊と呼ぶのだ?」
 不足の報告を、王は責めなかった。寧ろ優秀な彼を心配するように片眉を上げて尋ねる。その声には僅かな幼さも含まれていた。
侍従長は唸った。
「……捕らえた、というところから訂正したほうがよろしいのでしょう。その者は現在地下牢に幽閉されておるのですが、あそこはもう古びているため長い間使われていないはずなのです。そもそもその者を地下牢に収容した覚えがある者もおらず、また見た目もなかなか現実離れしているようで」
「なるほど、勝手に地下牢に棲み着いた幽霊か」
 王は幼い頃乳母に聞かされた怖い話を思い出した。昔は恐ろしさもあったが、今となっては興味が湧き上がるばかりだ。
 ブイヨンを一気に完食し、王は何かを思い付いたように立ち上がった。踵を返して鏡の前に向かう彼の後ろを、侍従長が衣服を持って付いてくる。
「いかがいたしましょう?」
「決まっているだろう。私が直接この目で確かめるのだ」
 そう言った王の顔にはもはや無邪気さしかなかった。好奇心旺盛なところは幼少期からまったく変わらない。
 帯を解き着流しを脱ぐと、侍従長からスリーピースを受け取り素早く着替える。ただ彼の場合、上着は背広ではなくゆったりとした外套、靴は赤茶色の軍靴だった。髪色と同じ真っ赤なタイを結んでから、真っ白な布を頭に巻き後頭部で縛り上げれば、王の支度は完了する。
 本来多くの国では、朝目覚めてから祈祷台で神使《しんし》――つまりは神の使いとされる者に祈りを捧げる儀式があるが、この国にはそのような習慣がない。そもそも神使と呼ばれる者が存在していないのだ。大陸に一人の聖神使と、国に一人の神使が置かれるようになってまだ間もなく、その定義がかなり曖昧なものであったことが一つの理由でもあるのだろう。しかしそれ以上に、この国の人々が神使を求めなかったことが大きい。民が崇拝するための存在は、すでに王一人で十分と考えられていたのだ。
 そして今日も何者にも祈りを捧げないまま、彼らは新たな一日を迎える。
「行くぞ。まだ晴れているうちに」
 外套を翻し寝室を後にした少年の顔つきはすっかり、一国を背負う者のそれへと変化していた。侍従長は数歩先を行き、南扉を開けて王を待っている。
 王のアパルトマン(住まいを構成する広間群)の中で寝室はちょうど中央に位置しており、南側の扉が会議をする閣議の間に繋がっている。さらにそこを抜けて広間を通ると一階へと続く大階段がある。色大理石が贅沢に使用され、壁一面に名画が飾られている豪壮な雰囲気なそこを、二人は軍靴を踏み鳴らしながら進んでゆく。
 庭園へと続く正面入り口の扉を開ければ、静かで穏やかな王宮内とは真逆の世界が四角く切り取られて見える。大地を覆っている雪は太陽の光をものともせずそこに在り続け、風が大声で唸る。王は少し顔をしかめてなお、平地と変わらぬ様子で雪道を進んだ。
 地下牢は、王宮の正面から六町ほどの距離、庭園の最南端に位置する。目印も見張りもいないのは、長年使用されていない上に、地下扉に雪が降り積もって内側から開けることが難しくなっているからだった。
 侍従長が地下扉に積もった雪を払いのける様子を見て、王は苦笑した。
「久々に来てみると、酷いな。古参兵以外はこの地下牢の存在すら知らないのではないか」
「はい。まあ知っていても、こう雪で埋まっていては場所もわからないでしょうが。今回報告を寄越した兵も古参兵で、地下から音がしたから覗いてみただけのようです。普通こんな所に用はありません」
 地下扉を持ち上げると、地上の雪が次々に地下へと落ちた。侍従長が先に地下へと続く石段を降り、王もその後を付いていった。
 しんと静まり返る地下は薄暗く、壁の燭台が唯一の灯りだった。冷たい石造りの壁に囲まれた部屋は錆びた鉄格子で区切られていて、その扉は鍵が壊れており役目を果たしていないように見える。牢は一つだけで罪人ひとりしか収容出来ないが、地下牢全体の広さはそれなりのものだった。この場所を作らせたのは先代の王のはずだが、目的は誰も知らない。
「これは……」
 王は言葉を失った。朽ちた鉄格子に対してではない。そこに収容されている者が、王の想像をはるかに越えていたからだ。
 おそらく王よりももっと幼い、十歳くらいの少女が石造りの壁にもたれていた。桎梏《しっこく》で自由を奪われ鉄格子に繋がれている。薄水色のワンピースと透けるような白い肌には汚れが一つも見あたらず、この薄暗い地下の中で肌が光を放っているような錯覚さえ覚えた。さらに特筆すべきは少女の髪で、座っていれば地に届きそうなほど長いそれは明るい黄緑色をしていた。目にかかるほどの前髪の隙間から、わずかに光を持った緑色の瞳がこちらを見据えている。
 ある種の恐ろしささえ覚えるほど清楚で穢れないその少女は、罪を犯した者が入るべきこの地下牢ではあまりに場違いであった。何より、一年の半分が冬であり、春に向かう今もなお地上に雪が残り続けているこの雪国で、真夏の太陽の下を歩くような格好をしていることが妙だった。寒さを感じている様子もない。
「なるほど、幽霊と言われるのも頷けるな」
 王の直接的な言葉に、しかし少女は眉ひとつ動かさなかった。誘われるように少女に近付いた王は鉄格子を掴み、目線を合わせるため膝をつく。
「貴公はなぜここにいる? 桎梏は罪人のそれか? 本当に幽霊なら為す術もないが、もし迷い込んだだけならここから出してやれる。罪人であっても、罪によってはここよりましな牢獄に送ってやる。さあ、遠慮なく話すが良い」
 王は自分が何者がを名乗らず、恐怖や圧力を感じさせない優しい声で話しかけた。地上から隔離された地下牢全体に、王の少年としての純粋な声が響く。
 向き合っているのは少年と少女、言ってしまえばそれだけだが、彼らを隔てている錆びた鉄格子や立場的な問題はどんな壁よりも牢固に見える。緑色の目に王の姿が映っているのかすら暗くてはっきりしない。
 しばらく少女は微動だにしなかったが、残響が止むとようやく口を開いた。
「罪人じゃないけれど、ここからは出られないわ」
少女は見た目よりも随分と大人びた話し方をした。
 何もかもが現実味に欠ける存在に声があるということに王は驚いたらしい。暗闇でなお光を持つ金色の目を少しだけ見開いた。
「どういうことだ」
「言ってはいけないの」
「誰かにそう言われたのか」
「違うけれど、きっとそう。ここにいると気付いた時から枷はあったもの」
 そう言って少女は手枷を見せた。本来両腕を繋ぐように伸びているはずの鎖は途中で切れており、ただの錘となっている。
 後ろで二人の会話を聞いていた侍従長は、少女の曖昧な返答に首を傾げている。王はなんとなく気配でそれを察していたが、構わず少女に語りかけた。
「ここから出る気はないのだな。まあ良い、こんな所でいいなら好きなだけ留まるが良い。食料くらいは兵に持って来させよう。しかし……一つだけ聞かせてくれ。貴公から見た私は、愚かであるかを」
「陛下、何を」
 侍従長の驚いた声を手だけで制し、王は自分と対等の者を見るような眼差しで少女を見た。
「勇敢だと思うわ、とても」
 少女は背筋を伸ばして、ただ真っ直ぐに目の前の王を見つめ、彼の誠意に応えた。

 二日後の明朝、エラルディア軍が三年ぶりにフェレオルの国境を越えて侵攻を始めた。完全武装の隊列を成して進んでくるエラルディア軍の意志が、この国の占領のみであることは自明だった。
 予兆などあるはずもなくあまりにも突然の出来事だったが、フェレオル軍は至って冷静で、彼らが全ての準備を完了し王宮庭園に隊列を築いたのは、通信隊から本部に情報が届いた約二刻後であった。
 大戦を前に今、庭園を覆い尽くす白銀が視認出来ないほどに兵がひしめき合っている。兵、下士官、将校関係なく全員が白い梅章のついた軍帽を着用し、寒さに震えることはおろか、荒い息をついて白い煙を立ち上らせることもなかった。流石は勇猛な士によって心身を鍛えられた兵《つわもの》たちである。
 間もなくして王宮から姿を現した王に、フェレオル全軍からの敬礼が送られる。王は後ろに獅子を引き連れて、隊列の前までゆったりと歩を進めた。
 この獅子は王に襲い掛かる全ての敵を咬み殺す、まさしく彼の相棒というにふさわしい存在であり、戦闘時には一個小隊に匹敵する頼もしい戦力となる。同時に、その広い背に王を乗せて移動する馬の役割も果たしていた。
 兵士同様王が敬礼の姿勢をとると、獅子は静かにその場に伏せた。
 王は手を下ろし、宣言する。
「諸君。予想より随分早くこの時が来てしまった。先代の王が散華した戦いから三年、今回こそは間違いなく大戦になろう。我らが戦うべき理由は国を守ることただ一つだが、私はそれを正当防衛とは言わん。どんな大義名分があろうともこれは戦争だ。勝利も敗北も、全ては人の殺し合いから生まれる結果だ。言い訳も美化も私はしない。それが、諸君らに示すことの出来る私の誠意だと思っている」
 この王は正直で、年相応に見栄を張ることを知らない。ゆえに、言ってしまえば士気が下がりかねないことも平気で口にした。しかし兵士にとっては、ただ力や威厳で服従させようとする上官より余程信用することが出来たのだろう。誰一人顔色を変えることはなかった。
「一人の兵として誓おう。私と共に戦ってくれるならば、なんとしても犬死にだけはさせない。私自身が、そして諸君らが、愛国心のもと迷いなく戦えることを祈っている」 一度目を伏せてから、外套を翻し王宮に戻っていく王の背中に、兵たちからの心からの敬礼が送られた。

 グリムラント大陸は、大陸北部に位置する大国・エラルディアに支配されつつあった。もともとそれほど大きな大陸ではない。瞬く間にエラルディアは北部から領地を広げ、大陸中心部まで占領を完了、残るは大陸南部のローレンスとフェレオルだけとなった。ローレンスはエラルディアに次いで二番目に大きな国で、大陸随一の軍事国家でもあった。それゆえエラルディアは、先にフェレオルを制圧したのち挟撃という形を取ろうと目論んでいたが、長期間の戦闘により戦力が衰えていたこともあり、一度目の侵攻は失敗に終わった。これが三年前のエラルディアとフェレオルの戦争である。三年前のこの戦いでフェレオルは先代の王を失ったが、敗北したわけでも勝利したわけでもない。両国は壊滅寸前の被害を抱えたまま、結果的に一つの戦争を振り出しに戻すのみとなった。
 もともとフェレオルにはエラルディアを占領しようという目的がない。ならば彼らが戦争をする手段は死守であり、それが叶わない場合には捕虜としての人道的待遇を要求するのみであった。占領を計画しなかったのは、兵力差や地形の悪さなど現実的な問題以外に、王族が国としてこれ以上の姿を望まなかったからだ。
 今回の大戦でも、フェレオル軍は北から侵攻してくるエラルディア軍をただ迎え撃つ覚悟である。予想より早い開戦となったが、三年もの期間で態勢を整えたのは何もエラルディア軍だけではない。
 フェレオル軍の戦力は無慮五万、敵軍がいくらその数を上回ろうとも、護国の鬼となることを望んだ彼らに迷いをもたらすことは決してない。
 先頭には王が立った。そして隣の獅子が天に向かって哮り立った時、開戦の合図が下った。

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