「自分がお連れします」
「ああ、頼んだぞ少尉。お前も王と共に休むといい」
(小説「実存心論」72頁より)

 目が覚めたとき、天幕には既に誰もいなかった。
 慌てて飛び起きようとしたが、身体が重くて動きが鈍くなる。寝転んだまま首だけを動かして、もう一度辺りを見回す。やはり人の気配はない。相棒の獅子の姿もない。ただ所々に残った血の滲んだ跡が痛々しく残っているのを見て、夢ではなさそうだな、と少年はぼんやり思った。
 数秒、自分がどこにいて何をしていたのかを思い出そうとする。天幕にいるということは、野営をしたのだろう。燭台を持たずとも普通に目が見えるあたり、もう夜が明けてから大分経っているはずだ。誰かが掛けてくれたのだろう毛布を退けて、外の様子を伺おうと出口に向かう。
 その時、ゆっくりと雪を踏みしめる足音が聞こえた。今度こそ少年は飛び起き、側にあった三八式小銃を手に取り、目にも留まらぬ速さで着剣した。身体に血が巡り、脳裏にかかった霧が晴れる。そしてようやく、
(……そうか、私は、戦争をしていたのか)
 と他人事のように思った。
 目を見開き息をひそめる。この一連の動きは当然の反射として身についてしまったものだから、足音の正体が敵でも味方でも関係ないことだった。自分の意思とは無関係に身体が動くのだ。しかし確かにこちらに近付いてくる足音の主がエラルディア兵だとすれば、取るべき行動は一つしかない。
 天幕に映る人影は確実に少年に近付いていた。心臓が高鳴り、無意識に二手三手先を考えられるくらいにはもう目が覚めている。
 人影が天幕の入り口に手を伸ばした瞬間、少年もすぐさま立ち上がり突撃の姿勢に移ったが、その正体を見て拍子抜けした。
「なん……だ、お前か」
「お目覚めだったんですか? どうしたんです」
 殺気立っている王を見て少尉は目を見張っている。汗びっしょりですよ、悪夢でも見ましたか? なんて呑気なことを言いながら向かってくる。少年が、勝手に少尉を敵だと認識して身構えたのだから文句も言えないが、殺気とは程遠い雰囲気の彼を見ていると少し苛ついた。どかりとその場に腰を下ろし、小銃を置いて投げやりに問う。
「うるさい。いいから現状を報告しろ。私が眠ってからどのくらい経った?」
「三日」
「みっ……」
「というのは冗談で、一刻しか経ってませんよ」
 少年は驚いて、ひゅ、と息を止めてそのまま少尉を見上げていたが、すぐさま拳を作って彼の足を殴った。「痛い!」と声を上げて少尉がその場にうずくまる。しかし少年は鋭く彼を睨み、顔を真っ赤にして唇をわななかせた。
「少尉、いい加減にしろ。誰がそんなつまらない嘘をつけと言った? 私は現状を報告しろと言ったのだ」
「現状は、変わりませんよ」少尉が口を尖らせる。「第一師団と第三師団が合流を果たしたところで、緊張の糸が切れ王は倒れられた。ぐっすり眠っておられたのに、起こしてしまい申し訳ありませんでした」
「では本当に、一刻しか経っていないのだな」
「ええ。第二師団の配置にはまだ時間がかかりますので、王はもう少しこのままで大丈夫です」
「……そうさせてもらう」
 少年は自分を落ち着かせるように息を吐いた。少尉もその隣に腰を下ろし、でもね、と苦笑する。
「このところ余裕がなかった王に冗談を言って笑っていただきたかったのですが、ちょっと内容が悪かったですね。申し訳ありません」
 それを聞いてようやく、少年は自分の愚かさを自覚した。総司令官である自分があからさまに焦りを表に出せば、兵の士気に関わるとあれほど気を付けていたのに。冗談を咎めるだけならまだしも、いい加減にしろと部下を殴るなど、余裕がないと口に出しているようなものだ。少年は自分の理性で感情を制御できなかったことに酷く落ち込んだ。私こそすまない、と静かに頭を垂れる。
「疲れを理由にしては軍人失格だが……焦りを悟られるどころか部下にそんな気まで遣わせてしまって、王失格だ。戸惑っているのは、私だけではないのに」
「いえ、そんな、やめてください。ただの兵と一国の王ですよ、責任の重みが違います。あなたが疲れを見せるのも仕方がないことです」
「仕方がない……か」
 本当にそうなのだろうか、と少年は自分に問う。
 無言のまま少尉を見上げれば、彼は小動物のように小首を傾げてへらりと笑った。緊張からは程遠い場所で、ただ少年を許すような表情に、かえって胸が苦しくなる。期待と理想に追いつけていないのは自分だけだと突き付けられる。いっそ厳しく責任を問うてくれれば、怒りに任せて理不尽に言及してくれれば、わかりやすく自分を諦められたのかもしれない。けれど人を殺す場所で人の温もりに触れるたび、死ぬときには関係のないことを聞きたくなってしまう。
「お前はなぜ、私を見限らないのだ」
 少年が無感情に呟いた言葉に対し、少尉は目を丸くしてからまた笑った。
「私はこの国と王が好きです。今の国の在り方にも、なんの疑問もありません」
 深い慈しみに満ちた瞳は、その言葉が嘘ではないことの何よりの証明であった。少年は依然として少尉を熱心に見上げたまま何も言えずにいる。やがて、己の感情を口に出すことが出来ずがんじがらめになっている少年を安心させるように、少尉は小さな額に口付けた。
 こんなことをされるのは初めてではなかった。少尉は普段から、少年と二人きりになれば仔犬のように人懐こい笑顔で近付いてきたし、逆に何かの不安を共有するように少年の頭を撫でたりもした。戦闘により昂ぶった熱を胸の内に燻らせたまま、噛み付くような口付けをしてきたこともあった。少年は年相応の恋愛感情というものを持たなかったため、それらの行為に特に疑問を抱かなかったが、上官と部下を越えた関係であることはわかっている。そしてそこにある感情が、愛や恋といった幸福の類ではなく、生存を認め合うような傷の舐め合いだけだということも知っていた。
 少年が自らその行為に及ぶことはなかった。けれど求められれば拒むことはなかった。それがなぜなのかは本人も深く考えなかった。
「よくできた愛国者だな」少年はそう呟き少尉から目を逸らした。「まったく模範的だ」
 認めたくはなかったが、先ほどの少尉の行為によって頭の中の霧がスッと消えた気がした。冷静に物事を考える余裕が戻ってくる。少年はまたいつも通りの感情の薄い表情に戻っていた。少尉はそれを見てふっと息を吐き出し、唇を尖らせながら問う。
「疑っておられるのですか?」
「いいや。私はお前という人間を嫌というほど理解しているのだ、今更疑うことなどあるものか」
「へえ」瞬間、青い瞳が確かに少年を捉える。「光栄なことです。けれどそれなら、私がどんなに臆病な気持ちでこの戦場にいるかもお分かりでしょう?」
「ああ。だが、誰だって同じだ。お前だけではない」
 淡々とそう言い、少年も少尉を見つめ返す。深い青には光も闇もなく、まだこの世の何にも染められていない子供のそれのようにつるりと美しかった。けれどもそれは一瞬で歪み、ひとたび瞬けば瞳の中に映る少年を取り囲むようにゆらゆらと炎が灯る。そして、先ほどの人懐こい暖かさとは程遠い場所で彼を見ている。きっと少尉本人はそんなことには気付いてもいないのだろうが。
 天幕の中は相変わらず静かだった。ここ数日、怒号や銃声などの混沌とした喧騒に慣れすぎた耳は、少し離れた場所の兵士の話し声などはないものとして扱ったようだった。この場にいる二人が黙っていればそこは無音だった。今の二人はすっかり銃声が恋しくなっている。
 先に沈黙に耐えかねたのは少尉だった。顔を背けて天幕の入り口をぼんやり見ながら言う。
「生まれてから死ぬまでに数え切れないほどの敵を殺すのに、私たちはいつだって一つの命の心配をしている。それってとてもおかしなことだと思いませんか?」
「自分と他人の命は必ずしも同じ重さではない。少なくとも本人にとってはな。考えても仕方のないことだ」
「そうです、仕方のないことなんです。だからこそ愚かだと思うのです。こんな人殺しばかりの人生でも、確かに生きていたいと思ってしまう」少尉ははっとしてから、唇を噛み締めてゆっくり俯いた。「……すみません、忘れてください」
 少年は少尉を責めなかった。戦争の勝利も敗北も、全ては人の殺し合いによる結果だと言い続けてきたのは紛れもなくこの少年ーー王だ。軍人の仕事が戦争であるなら、彼らの生き方が「人殺しばかりの人生」と形容されることにも首を横に振ることはできない。例え国や王のためであったとしても、彼らは決してそれを正当化することはできないのだ。当たり前の仕事をこなす自分を冷酷だとさえ評価し、中には引き金を引くことをやめてしまう者もいる。そうなっていないところを見ると、彼はきっと自分を騙し続けてここまで戦ってきたのだろう。そのことを申し訳なく思う心さえ、少年は忘れてしまった。
 フェレオル軍の人間の大半は敵であるエラルディア軍人を心の底から憎んでいたが、少尉はそういう人間ではなかった。かといって、殺人行為をただの仕事だと割り切れるほど他人に無関心な人間でもなかった。でなければ、この青い瞳は慈しみなど含まず濁りきっていたはずなのだ。
 少尉は身体から力を抜き、少年の肩口に顔を埋めた。突然体重を預けられて驚いた彼はちらりと表情を覗き見ようとしたが、長い前髪で隠れてしまっていて読み取れない。やがて少尉が小さな声を発すると、肩から微かに振動が伝わった。
「あなたはいちいち見てますか? 敵の顔」
「……いや」
「見れるわけがないですよね、今から自分が殺す人間の顔なんて。目が合おうものなら、しばらく忘れられない」
 少年はその意見に同意しなかった。少尉が言いたいことの本質はもっと他にあるのだと思いながら言葉を待つ。やがて彼は少年の肩にしがみつくようにして言った。
「戦ってるときはなんともないんです。一時的に違う人間になったみたいに恐怖は緩和されて、戦うことは道を塞ぐ障害物を壊す行為だと感じている。なのに、一度戦場から離れればまたあの感触が蘇る。肉を貫く瞬間が、引き金を引く指先の感覚が……」
「少尉、もういい、考えるな」
「こんな人道から外れた私が、生きたいと望んでいいはずがない。それとも敵は、私がこうして悩むに値しないほど巨大で凶悪な何かなのか? 殺されて然るべき存在なのか? ずっと、そんなことばかり考えているんです。変でしょう?」
「違う、お前が、真面目すぎただけだ。受け止めすぎただけだ」
 慰めるような言葉に、少尉がおそるおそる顔を上げた。その表情はひどく子供っぽく怯えていた。そして懺悔するように言う。
「戦争における敵について書かれた本を、私は今までたくさん読みました。腑に落ちないことも、直視したくないことも、当事者では理解しえないであろうことも、すべてを知り受け入れることで、私は私を諦めようと思ったのです」
「だが、諦めきれなかったんだろう」
「……はい。敵を知り己を知るとはよく言ったものですね」
 少年は、少尉の頬にゆっくりと手を添えた。彼の心境を察しはしたものの、もはやそれに共感してやることは出来ないという、一種の罪悪感のようなものからくる行動だった。少尉の身体は当たり前だが暖かい。掌から伝わる体温は、幾度となく触れてきた敵の血に似ている。
「だれもかれも、生きたいと願っています。きっと、あなたも」
 少尉は少年の手を掴み頬から引き剥がした。腕を引っ張りながら背中に手を回し、ゆっくりと上体を押し倒す。動揺することのない金色の瞳に、辛そうに眉根を寄せる一人の男の姿が映る。それはまるで他人事のように、悲しく見えた。
 少尉の優しい口付けに咄嗟に目を閉じる。たった数秒のそれはとても長く感じられた上に、彼の気持ちが自分の中に流れ込んでくるような不気味さを感じて、少年は身をよじった。
 やはり拒絶はしなかった。しかし少尉の背に手を回すことはない。ただ、動かぬ人形のようにじっとしている。
 深くなる口付けを受け入れながら少年は眉をひそめる。それは苦しさからでもあり、手に取るように流れてくる少尉の気持ちを知ってのことでもあった。
 こうして誰かを愛する真似事をするたび、流れてくる感情に触れるたび、少年は己の中に少尉の姿を見る。立場も生い立ちも年齢も違ったが、なぜだかぴたりと重なる部分を感じるのだ。
 しかし少尉はそう感じていないようだった。彼の心の中心には確かに少年の存在があったが、それは宗教的な何かに近かった。少年を守って、慕って、信仰しているように見える。王や国のためならば喜んで命をも投げ捨てる、そんな模範的な愛国者に見える。最初は少年もそう思って騙されていたが、この男と関係を深くするうち、その真っ直ぐな志が酷く混沌としていて歪んでいるものだと知った。
(本当はお前こそが、私を憎んでいるのだろう。お前はお前がいちばん可愛い。生きたいと願っているのはほかでもない、お前自身だ)
 人間的でごく自然な生への執着が、皮肉なことにこの軍隊では受け入れられない。だからきっと、少尉本人もその感情を心の奥底にしまい込んできた。僅かな隙間から漏れ出すことも許さず縛り付けて隠しているうちに、いつしかその存在さえも忘れてしまったのだろう。
 長い口付けに痺れを切らし、少年は少尉の肩を押し返した。息が荒くなったのを隠すようにそっぽを向いて俯く。「王?」と優しく少年を呼ぶ男の声に、胸が締め付けられる。
「生きたいと望むことは何も悪いことではない。お前は私とは違うのだ。自分を見失ってまで勇敢である必要などないのだ」
「じゃああなたはどうなるんです? いくら王だからとはいえ、常にその身を危険に晒してまで先陣を切って戦うのが本当に必要なことなんですか?」
「……わかってくれ。私は本部でただ命令を下して見物しているだけの無能にはなりたくないのだ」
 口に出しながら、少年はそれを本当の望みだと思い込もうとした。少なくとも嘘ではない。戦場を知らぬ君命ほど役に立たないものはないと、それくらい想像すればわかることだった。
 少尉は声もなく唇を噛み締めたあと、王の胸を拳で叩いた。
「そうやってあなたが! あなたがいつも立派な王であったから……私たちは決して裏切ることができないのです。この国を見捨てることもできないのです。先代の王といいあなたといい、罪なお方だ……」
 そう言ってまた深く口付けられた。噛み付くようなそれはお互いの言葉を飲み込み、弱さを見せる心を食い荒らした。少年は少尉の行為に身を預けてされるがままになりながら、流れてくる少尉の気持ちと己の気持ちを重ね合わせた。
 やがてぬるりと口内を蹂躙する舌の動きを真似するように、少年も舌を動かす。恥ずべき行為だという認識はいつのまにか遠ざかり、ただただ行為に没頭する。少尉の背中に手を回し、彼と同じだけの力で身体を抱く。そこに安心感はあれど幸福感はない。鼓動を確かめるように少尉が胸に掌を押し付けるたび、どちらのものかもわからない生温かい唾液がまるで血のように口元を汚すたび、自分が幻になったような気がした。そして少尉が体重を預けたことにより両胸に響く鼓動は倍になり、互いの境界を曖昧にしていった。少年はうなじに手を這わせ少尉の髪を撫でる。当たり前だがどこに触れても暖かいことが、今の少年には泣きたくなるほど特別なことのように思えた。
 人として生きている。心臓が送り出した血を身体中に巡らせて、これまでの想い出を抱いて、なにひとつ正しく言葉にできない複雑な感情とともに、生きている。
 それだけのことがただただ愛しく、同時に、己の罪を強く心に浮かび上がらせた。

 ひとり、夢の中で意識を持つ。
 辺りはただただ暗かった。私が寝そべっている床らしきものはあったが、手で触れてみても材質らしい感触は何もなく、例えるとすれば硝子のように無機質で冷たいなにかだった。ゆっくり上体を起こして己の姿を確認すると、私が確かに身にまとっていた真っ黒な軍服姿ではなく王としての正装姿が目に映った。辺りを見渡してみても全く何も見えないのに、自分の姿だけははっきりと見えるのが不思議である。暗闇の中で僅かながらに像が見えるのではなく、発光するように眩しく見えるのでもなく、己だけが昼間に存在しているような暖かさがあった。夢の中ならばそういうこともあるのか、と他人事のように思った。
 私はなんとなく不気味なこの場から離れるために立ち上がろうとした。しかしできなかった。腰に、今にも泣き出しそうな顔をした少尉がしがみ付いていたからだ。
 おかしい、さっきまでこいつはここにいなかったはずだ。そう思ったが、夢の中でそんなことを問うても意味がない気がした。
「どうした……」
 咄嗟にそう言ったが、声は私の耳にすら届かず虚空に吸い込まれて消えていったようだった。何度口に出しても同じことだった。ぱくぱく口を動かす私を見上げて少尉はうっすらと、笑った気がした。
 退こうとしたが奴は動くことを許してはくれない。瞬間、腰がずしりと重くなる。人間ひとり分の重みというよりは、身体が独りでに蠢くような不快感が下半身にまとわりついているようだ。
 非常に良くできた幻影だ、と感心したのも束の間、少尉は見たこともない不気味な笑みを浮かべてから、よりいっそう腕に力を込めて私を地下に引きずり込もうとする。私は慌てて体勢を膝立ちに切り替え、少尉の力に対抗しようとした。彼は確かに私の知っている少尉であったが、尋常ならざるその力には人間離れしたなにかを感じた。
「勘弁してくれ」
 思わずそう口にしたが、やはり声は音になる前に暗闇に消えた。
 少尉の肩を掴んで必死に引き剥がそうとするも、彼は微動だにせず私を見つめている。なぜ彼が私の夢の中に入り込んでまでこんなことをしてくるのかは知らないが、心当たりがあるだけになんともばつが悪い。おまけに、
「だれもかれも、生きたいと願っています。あなたは違いますか?」
 などとぽつりと呟くものだから、ますます彼を見て見ぬ振りはできなくなった。
 少尉の中に自分の存在が深く根を張っているのと同じように、私の中でもまた少尉の存在は深く意味を持つものになっていたのだ。知らないうちに彼は、大多数の兵士の代表から唯一無二の存在へと変化し、私が己自身の罪を考える理由にまでなっていた。振り払うことなどできはしない。少尉の葛藤の正体は、私の罪そのものなのだから。
 私は呆然としながら少尉から手を離し呟いた。
「違う、違うのだ。私の願いは……」
 もはや誰に対してなんの弁解をしているか私自身もわからなかった。そこから先を口に出そうとしても、頭が痛くなるばかりで全く考えがまとまらない。敵を前にしたときや部下に指示を出すときには反射的に自信に満ちた言葉が出てくるのに、自分だけの感情を認めたうえでの言葉を正直に口にすることがなぜ、これほど難しい?
「王として、など考えずに、ただの人として答えてください」少尉が優しい眼差しで私を見る。「思い出してください」
 何も答えられず目を閉じて俯いた私の頬が、少尉の掌に包まれる。そこにいつものような暖かさはなかった。確かに触れられているのに実体がない。ひとの身体から無条件に溢れ出す生のあたたかさというものが、まるで感じられない。それがますます私の不安を煽った。
 私は正しさを追い求めるあまり、己の罪すらもこうして忘れていきつつあるのだろうか。罪の象徴とする少尉のぬくもりを感じられなくなるほどに、全てを心の奥底に封じ込めてしまいたいと願っているのだろうか。
 暗闇が一層深くなる。目頭に温かさが宿る代わりに、少尉に触れられている頬から体温が奪い取られていく気がした。突如、内側から身体の全てを引っ掻き回されるような不快感に襲われる。足元はぐらつき、咄嗟に少尉の腕を掴もうとしたが手応えはなかった。突然現れた閃光が私の頭を貫いて、脳裏に誰のものともわからぬ幾多もの悲鳴だけを残していく。頭を、耳を押さえても消えることはない。
 耐えなければならない、と思う。ここで何を囁かれても、居心地の悪さに耐えかね逃げ出したくなろうとも、不安や弱さの濁流にのまれてはならない、と。永遠に抜け出せない、地獄すら生温いと思えるような場所にとどまることこそが私の罰だ。強引にそう決めつけ、意を決して顔を上げた私を、少尉は憂うような目で見つめた。
 愛する国の行く末を憂いながらもたったひとつの己の命を惜しみ、けれども怒りの矛先をどこに向けていいものか迷っている、そんな顔だ。私がそれを受け止めるだけの器を持ち合わせていないばかりに、彼にはずっとこんな表情をさせてしまった。
 彼は闇を掻き分けて私に声を届けた。
「あなたは、本当の気持ちを忘れないでください」
 己の罪の象徴である彼の声は、ここでもやはり光にはなりえない。
 反論したかったのか真意が聞きたかったのか自分でもわからないが、思わず口を開いた直後、少尉はあっという間に暗闇に溶けて消えてしまった。それと同時に耳鳴りや冷たさが私の身体からすっと手を引いていく。身体は現実を取り戻しつつあり、ぼんやりとした思考を置いていこうとする。
 本当の気持ちを忘れないーーそれは彼自身が叶えられなかった願いなのかもしれないと、ふと思う。だが、託す相手を間違っている。
 王としての私の願いや生は、私だけのものではない。全ての人々を満足させることのできる答えなど存在しないとはわかっているが、ならば私は一体どう振る舞うべきだったのだろう。これからどう振る舞うべきなのだろう。
 誰に後ろ指さされても、無様に背を向け負けを認めれば多くの命を救えるだろうか。兵たちの仇を討つことをやめ、護国の鬼となった者一人ひとりに手を合わせれば英霊は安らかに眠れるだろうか。そもそも私にもっと王としての器と力量があれば。そもそも私がもっと早くに散華していれば。そもそも私が、この世に生まれていなければーー。
 罪にまみれた身体が暗闇に沈んでいく。恨み、怒り、悲しみ、苦しみなど、兵たちが抱いた負の感情全てに、足を取られて動けない。
 私には、救われる資格などない。そう思う。きっとこれから先もその考えが変わることはない。
 先代の王ーー父も、こんな気持ちだったのだろうか。王として先陣をきって戦いながらも、やはりどこかで、救われず地獄に堕ちるであろう結末に諦めを抱いていたのだろうか。彼は王としてのこの人生に納得していたのだろうか。いずれ同じ立場になる者として聞いておくべきだったと、らしくもない後悔をして落ち込んだ。見守ってくれる侍従長も、頼りになる部下も、共に戦ってくれる兵もいることはわかっていたが、この暗い意識の中では私は一人だった。もちろん父も、もういない。
 私と彼は確かに血の繋がった父子であったのに、王とはなんたるかという理想を話すばかりで、本音で語り合わぬまま父はこの世から消えてしまった。まだ未熟だった私も、その時は生きることとはなんたるかを知らなさすぎた。
 先代の王の散華は惜しまれた死であったが、今となってはこれ以上ない正解だと思えてならない。きっと私たちは、生まれながらにして背負わされた宿命のために生き、解放されるために死んでゆくのだ。
 私はもう、生きることに疲れた。死後の世界というものが本当に存在するのかは知らないが、生きることより死ぬことのほうが、私にとっては余程自由であるように思えた。
 目が覚めれば、厳しい現実と戦場が待っている。暗闇に囲まれた空間の隙間からは赤が漏れ出し、目を凝らせば不気味に白い手の数々が無感情な呻き声と共に私を呼んでいる。私は全てを受け入れて、己の罪や負の感情がのしかかり重くなった身体で歩き出す。もう足を取られはしない。弱気になるのは心の奥底でだけで充分だ。じきに虚しいと思う感覚さえ忘れ、私は私さえも騙して勇敢な王を演じきる。
 深海のように暗く冷たい場所で、私は思う。願わくば、父と同じく「勇敢な王」として最期を迎えたい、と。王に与えられた最初で最期の自由だ、決して贅沢な望みではないだろう?

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