「王、ご報告があります」
 少尉は何の感情も込めずに言った。しばらくすると、部屋の中から小さく「入れ」と答える声が聞こえた。扉を開けて中に入った後、音を立てないようゆっくりと閉める。
 王は着替えの途中だったらしく、鏡の前で立ち尽くしていた。足元に軍帽や上着が脱ぎ捨てられたままになっている。
「今日はお一人なんですね」
 少尉は侍従長の代わりにそれらを拾い上げ、軽く畳んで近くの椅子に置いた。慣れた動きを見て王は呆れたようにため息をつき、着替えを中断して寝台へと歩いていく。白いワイシャツのボタンは半分まで外され、前がだらしなく開いている。そのまま寝ようとする彼の後に少尉がついて行こうとすると、不機嫌そうな声が寝室に響いた。
「報告など、ないのだろう。用がないならさっさと出ていけ」
 突き放すような物言いに少尉は苦笑した。そうわかっているなら始めから部屋に入れなければいいのに、とは言わない。
 寝台を覆う天幕を開き、王は眠りにつこうと横になる。少尉は足早に彼を追いかけて、それを遮った。
「ちょっと……今日はえらく不機嫌ですね。何かありましたか」
「鈍いな、お前が来たから不機嫌になったのだ。早く閉めろ」
「酷いなあ。少しくらい話をしてくれたっていいじゃないですか。それにまだ夕方です、眠るには早すぎます」
「話すことなど何もないと言っているのだ」
 今度は少尉がため息をつく番だった。拗ねた子供のように布団にくるまってしまった王を数度揺さぶる。反応がないことを確認してから静かに天幕を閉めると、窓から差し込む光が遮られ、その中は一気に暗くなった。
 王を揺さぶるのを止めて、少尉は心配そうに尋ねる。
「……明日、本当にお一人でエラルディアに向かわれるおつもりなのですか」
 その瞬間、勢い良く布団から顔を出した王はじっと少尉を見据え、唸るように言い放った。
「なぜ、知っている。たかが少尉であるお前が」
 彼らしくない物言いだったが、無理もない。少尉が言ったことは紛れもない事実であり、それを知る者は師団長クラスの数名と侍従長のみであったからだ。将校の中で最下級に属する少尉が知ることを許された情報ではない。
「申し訳ございません。たまたま聞こえてしまったのです。中将殿が情報を漏らしたわけではありませんよ。無論、他言するつもりもありません。ただこの場でだけ、それについて話すことをお許しください」
 少尉はそう言って困ったように笑った。聞いてしまったのが自分で良かったでしょう、と言いたげな顔である。王はそれを憎らしげに見つめた。
「閣議の間にも見張りをつけるべきだな。お前のように地獄耳でない者を」
「是非そうしてください。それより、一つ知りたいのです。エラルディアに向かうのは勝利を掴むためですか、それとも死ぬためですか」
「もちろん前者だ」
 間髪入れずにそう返ってきた。それが嘘ではないことがわかるくらいには、少尉は彼を知っている。王が真っ直ぐで純粋な性格であること以上に、彼は自分に気を許しすぎているという確かな自信が、少尉にはあった。
 王は幼い子供を安心させるような声で呟く。
「偵察だ。敵が現時点でどれくらいの戦力を有しているのか知りたい。何も敵軍に突っ込むわけではない。国民の様子を知るだけでも、エラルディアの現状はわかる。好調か不調か、くらいはな」
 無謀なことはしない、死ぬことはない、と言いたいようだった。
 少尉とてそんな当たり前のことは考えればすぐわかる。そうでなければ、師団長や侍従長が黙っていない。しかし王のことだ、彼らの反対を押し切り、黙って一人で偵察任務を強行しようとしている可能性は高い。私ならば今日一日中王を見張るくらいの懐疑的な目を持っているのに、と思っても、少尉にはそれだけの地位と権力がない。『たかが少尉』では、本来なら王と話をすることすら許されないのだ。
 守りたいと思ったものは特別で大きく、そして自分よりも強い。自分の無力さを思い知るこの瞬間が、少尉は大嫌いだった。
 薄暗いがお互いの顔ははっきりと見える天幕の中で、寝台に座る王と目線を目線を合わせるように、少尉はその場に膝をついた。そして身体をこちらに向けるよう促すと、まるで割れ物を扱うかのように優しく手を握った。
「王はいつもご自分の望みを叶えようとしない。それは国のためであったり、戦争の妨げになるのを避けていたり、理由は色々ですが、もう少しご自分のために欲張ってはいけないのですか」
「何が言いたい」
 王は上体を起こし、力なく呟いた。私自身がそれを許さないのだと、聞こえた気がした。
「私もあなたを人間だと思いたいのです。何よりあなたには、誰よりも生きたいと願っていてほしい」
「人はいつか死ぬ。私もお前もだ。願えばそうなるものではない」
まだ十五歳の少年の口からそんな言葉を引き出してしまったことが、少尉にはとてつもなく罪深いことのように思えた。せめて、と少尉は俯きながら、握った手を額に押し当てる。
 王の言うことは至極当然のことで、そしてとても賢い考えであるとも思った。期待しなければ失う気持ちは最小限に抑えられるのだ。王自身が希望に溢れていて欲しいと思う反面、少尉はその責任が取れないことをもどかしく思う。
「あなたはもっと、たくさんのことを望んで良いのです」
 誰かが許す、許さないの話ではない。仮にそうであっても、少尉にそれだけの力はない。
「……別に、お前が心を痛めることはない」
 少年が慰めるように優しくそう呟いたのが、余計心に刺さる。他人の心の痛みには気付く癖に、自分のことには無頓着な彼を見ていると、堪らなくもどかしい気持ちになった。
「私には、今のあなたは死に急いでいるようにしか見えない」
 いてもたってもいられなくなった少尉がとうとう正直にそう伝えると、
「お前の目にそう映るのなら、その通りなのかもしれんな」
 と突き放されるように返された。しかし付け加えて、
「だが、私とて男だ、死に場所くらい選びたい。……命を懸けて戦うお前たちに囲まれて死にたいのだ。戦場で、ただのひとりの兵士としてな」
 とまで言われれば、静かに呻き声を漏らしながら掌を握る力を強めることしか、少尉には出来なかった。

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