壁に耳あり障子に目あり、頭の隣に勘治あり。
 誰が言い出したのか、本人の知らぬ所でそのような言葉が出来上がっていた。勘治本人は大袈裟だと笑うが、一味の者は各々思う所があるようで、深く首を縦に振る。いずれ一味を纏める者として常に頭と行動を共にする事はあろうとも、勘治の頭に対する行動は周りから見れば常識から逸している、と皆が口を揃えて言った。
 確かに最初こそ下心があった。数多の女を抱き、数多の男に抱かれてきた勘治にとって、頭もその例外ではなかったのだ。しかし事実頭とは一度もそのような関係を持ったことはない。持ちたいと口に出すこともなかった。今の勘治には、異常なまでに頭を慕う気持ちだけがある。
(お慕い申しております、って言うのかねえ、あたしが女なら)
 乙女の純粋な気持ちとはかけ離れたものだが、憧れや尊敬を通り越したこの感情は、ある意味恋心に似ているかもしれないと勘治は思った。幼心を取り戻したようで、むず痒くも心が踊るようだ。
 どうやら、湯屋に行って少しばかり逆上せてしまったようだった。でなければ、いつも冷静なこの男がここまで浮かれている事に説明がつかない。
 湯冷めしないうちにさっさと帰ればいいものを、三十二にもなってまだ遊び癖が抜けない勘治は、一味の屋敷とは逆方向の大通りをふらふらと歩き始めた。茶屋で一休みするも良し、崩れた髷を髪結い床で結ってもらうも良し、真昼間から酒を飲むも良し。宛てもなく歩き、賑わいを見せる店に目移りしていた勘治の目に飛び込んできたのは、出床の前で水を撒いている一人の若い娘だった。
 なかなかの器量良しだと思ったのも束の間、何かがおかしい事に気付く。しかしそれが何かは、答えられそうにない。
(妙だねえ、あの女子……)
 開いているのかいないのかすら判別し難い、糸のように細い目を更に細めて、勘治は娘の頭から足先までもをじっくりと観察した。
 色が抜けたように明るい髪色、手の込んだ髪型。所作も女らしさを感じさせる美しさがあり、垂れ目がちな目も大きく、愛らしい顔をしている。錦絵になりそうな美人ではないが、素朴な町娘、という感じではあった。
 そこまで分析し、再び違和感を覚えたその時、娘と目が合った。
「兄さん、ずっとこっちを見てやしたね。そんなにあっしの事が気になりますか」
 近づいて来た者の、女にしては低い声を聞いて、勘治は納得したように頷いた。
「……まあね。お前さんが随分粋な格好をしてるもんだからさ」
 ひょっとすると嫌味ととられたかもしれないが、男だったのか、とそのままを口に出すのは野暮というものである。相手もそれをわかっているのか、微塵も動じずに勘治を見て、ゆるりと口を開いた。
「なあに、あっしはただのしがない髪結い師ですよ」
 自分の事を『あっし』と言っているからには、男であることを完全に隠そうとはしていないのだろう。近くに寄れば、女装が完璧なものでない事がよくわかる。髪型や服装は女のそれだが、太い眉や薄い唇、ごつごつした手など、よく見ると確かに男だ。
 しかし妙だ、と勘治は首を傾げる。役者でも、陰間茶屋の者でもないただの髪結い師が、なぜ女装をする必要があるのか。完璧に女になりきっているならともかく、中度半端に扮したところでは、非難されるばかりであろうに。それこそ、酔狂では済まされない筈だ。
 勘治はあれこれ考えながら、再び男の全身を舐めまわすように見ていたが、男は全く気にしていないようであった。もっとも、糸のように細い目に見つめられても痛くも痒くもないのであろうが。
 暫く無言になってから、ひょっとして、と勘治が口を開く。
「お前さん、女髪結いってやつかい?」
 女の髷を結う為に女装をしているのなら、全くの無意味という事も無いだろう。遊女屋では髪洗い日が決まっているというし、その日以外はこうして出床にいてもおかしくはない。
「女子の髪も、殿方の髪も結わせて貰ってます。男髪結いと女髪結い、特別どちらかに属しているという訳じゃあないんですよ。回り髪結いとして外に出る日もあります」
「へえ、珍しいねえ。しかしそれだけ忙しくしているんだ、腕は確かなようだね。お前さん、名はなんと言う?」
「松之助と申します。どうぞご贔屓に」
「松之助……いや、お松と呼んだ方がいいかね」
 勘治は冗談っぽく言ったのだが、松之助は至極驚いたような顔をしていた。あたしの顔に何かついてるのか、と首を傾げてみると、今度は照れくさそうに笑う。
「どちらでも結構でございますよ」
 さてはお松と呼ばれたのが嬉しかったのだな、と勘治は細い目を更に細くしてにやにやしていた。勘治は自分でも気付かないほどに、もうすっかり松之助の事が気に入ってしまっている。この男の場合、自ら名を聞いたという事は、余程その人物が気に入っているという証拠なのだ。
 名を聞いてしまえば、勘治はもう二度とその者の事を忘れない。逆に名前を聞かない限り絶対に記憶にとどめておく事が出来ない。そういうことがあるから、余程の事がなければ名を聞く事はない。特に長い付き合いではないだろうと悟った相手が自ら名乗ろうとすれば、口を塞いででもそれを阻止しようとするくらいなのだ。それほど、勘治にとって名前とは重要なものなのである。
(出会ってすぐに名前を聞くとはね……だがこれで安心だ。もう松之助の事は、絶対に忘れない)
 知り合ったばかりにも関わらず、一人の客、はたまた一人の友人としては、異常なまでの好意を抱きながら、勘治はあっけらかんと笑う。
「いや、これも何かの縁だ。せっかくだから、今日はお松に髪を結ってもらう事にしよう」
 松之助は女子のように柔らかく笑って、されど女子とするには低いその少年らしさ溢れた声で、
「さあさ、お入りください。お兄さんの髷をびしっと結って差し上げましょう」
 と言って勘治の背中を押した。
 さりげなく触れられたその背中がどうしようも熱くなった事も、松之助の手が異常に熱かった事も、勘治はしっかりと気付いていた。

戻る