殺されるかもな、と小さな声で呟く。お互いの顔さえ見えない暗闇の中で、探るように存在を確かめた。目を開けても閉じても景色が変わらない、ひたすらの黒の中に二人身を潜めているように、息を殺す。
 静寂に包まれながら耳をすませば、微かに聞こえる風の音があった。間違いなくここは山奥で、そしてその中に、今の二人のように身を潜めるかの如くこっそりと、宿がある。事あるごとに二人が世話になっている宿の一番奥の部屋で、たった今何かに追われている訳でもないのに、もしもの話をしていた。勿論二人が共にいると知れればこれから追われる事になる可能性は十分にあるが、今すぐにどうこうなる訳ではない。
「殺されるって、誰に?」
 九郎兵衛は、隣で横になっている史郎の手を探り当てると、暫くその手の感触を楽しむように掌を触り続けた。いつもは何かしら文句を垂れるが、今日は黙って何かを考えているようだった。ふいにきゅっとその手を握られて、九郎兵衛はなぜか身を硬くする。何かに縛られたような気がした。
「おめえでもいいや、くろ」
「何だそりゃ、新手の口説き文句か?」
 呆れたような声で九郎兵衛が問う。一呼吸おいて史郎の笑い声が聞こえたが、それ以上何も言わないものだから、九郎兵衛は黙って目を閉じた。手を握られたまま眠りにつくのは何年ぶりだろうかと、考えかけてやめた。
 目を閉じても何も見えない。目を開けても、この暗闇では何も見えやしない。視覚の代わりに働く聴覚はいらぬ音ばかりを拾ってきた。そして史郎が弱気になっていると気付いてからは、止まることのない思考が九郎兵衛の心を縛った。
「……おめえの弱音なんか、聞きたかなかったなあ」
「弱音に聞こえたか」
「うん」
「おれは、結構本気で言ってたんだぜ」
 史郎はそう言うと、手を握ったままもぞもぞと動き始め、布と布とが擦れる音を響かせた後動かなくなった。寝返りが打ちたいのならさっさと手を離せばいいのに、と九郎兵衛自ら離れようとすると、一瞬唇に何かが当たった。
「今、何かしたか?」
「うん。口吸い」
「この野郎、寝ぼけやがって」
 頭を叩こうにも、暗闇で史郎の頭がどこにあるかすら分からず、九郎兵衛が手を振り回すと、頭上で史郎が声を上げた。その後「冗談だよ」と続ける。二人とも、もう息を殺す事は忘れていた。
「手が当たっただけだって。そんなに怒るなよ」
 からかうような史郎の口調に九郎兵衛は腹が立って、手を握る力を強めた。爪が史郎の手の甲に食い込んで、血が出そうな程強く握った。痛がる声がする方にもう片方の手を伸ばして、耳を引きちぎる勢いで乱暴に、その顔を引き寄せた。何も見えないのに決してぶつかる事はなく、唇が重なった。
 やっぱり、嘘だ、と思った。手が当たっただけなんて、嘘だったのだ。
「しろ。おめえ、相当弱ってんだなあ」
 怒った声でも、呆れた声でもなく、ただ目の前の相棒を労わるような声だった。どんなに些細な声でも、本当の事しか話さない史郎の口から意味のない嘘が吐き出されるなど、九郎兵衛には一大事のように思えたのだった。それでも心の底から労わる気なんて無かったし、殴る蹴るの大喧嘩をしても死ぬような奴ではないと知っていたから、もう一度史郎の頭を引っ叩いた。
「おめえが悪いんだぞ。言えばいいのに、言わねえから」
「……そんなだから、くろは女にもてねえんだ」
「女みたいに扱えばよかったのか?」
「いや、それは嫌だな」
 今度は史郎が九郎兵衛の手をきつく握り返し、唇に噛み付いた。口の中に血の味が広がり、お互いに荒い息を吐き出した時、弱っていたのは同じだったのだと思った。そして、どちらのものともわからない血を飲み込んだ時、盃を交わしたのだと錯覚した。
「おれは、裏切らねえぞ」
 暗闇を溶かすように空から降ってきた淡い光が二人を照らす頃、お互いの手の甲に残った爪痕だけが、それぞれの痛みを物語っていた。

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