「ねえ、御主人」
 先に布団に入っていた筈のお雪がまだ眠りにつかずに自分を呼ぶものだから、丈太郎は横になったお雪の顔を静かに覗き込んだ。そうしたって顔は見えない。けれど物音や気配で自分が近くにいると彼女に示す事が出来ればそれでよかった。今お雪には自分しかいない。そう思っているからこそ、丈太郎は血の繋がりもない彼女をここまで大事にしてきた。
 膝をつき、お雪の頬に触れる。
「まだ起きてたのか。どうした?」
 自然と優しくなる声にむず痒くなったが、黙ったままのお雪に、丈太郎は続けて言う。
「私ももう横になる。お前が寝るまで、好きに話していていいよ」
 立ち上がりお雪のすぐ隣にある布団に入ろうとすると、小さな手がそれを止めた。丈太郎の着物の裾を掴み、すぐに離す。暗闇の中でお雪が丈太郎の手を探しているのがわかった。黙って両手で握ってやると、彼女は小さく息を吸い込んで何かを伝えようとした。少しだけ息が止まる。
「御主人、簡単に命を張れるような事なんて、きっと、あってはいけないものですよね。それとも、それだけ大切なものが出来たと嬉しく思うべきでしょうか」
 誰に対する事を言っているのか丈太郎にはすぐに理解出来た。お雪の前で「命をかける」ではなく「命を張る」と言った人物など一人しか存在しない。
 思った以上に深刻で難しい問いに丈太郎は言葉を詰まらせる。
 どちらとも言えないというのが正直な答えだった。盗賊だった頃なら間違いなく「何かに命をかけるなんて馬鹿馬鹿しい」と言えただろう。しかし足を洗いお雪と暮らし、人の親というものが分かりつつある丈太郎が、そんな言葉を口にするなど出来る訳がなかった。
「……あの人達は、お互いが無理せず生きる為に命をかけているんだろうよ。死ぬ事が前提じゃない」
「本当に? 本当にそうでしょうか……」
「ああ。あの人は生きる為にどうすればいいか考えている途中だ。見守っていてやろう」
 話しながら、自分が足抜けした時の事を思い出す。
 今冷静に考えると自分が生きている事が夢なのではないかと思えて仕方が無い。それほど、逃げるという事は罪深い裏切りの行為である。それを理解した上で彼らがとる行動はきっと、自殺行為に最も近いものだ。「万が一」、「うまくいけば」などあり得ない。
 彼らには「迷惑をかけない程度でここを利用する事は構わない」とだけ言ったが、お雪があの二人に好意を抱いている以上、丈太郎としては彼らを全力で手助けしようと思っていた。それでも、出来る事などたかが知れているし、当人以外が何をしたところで、結果が大きく変わるとも思えない。
 まだ十一歳のお雪にその全てを伝える事は、丈太郎には出来なかった。
「お雪。今度あの人達が来たら、お前が心配している事をしっかり伝えるといい。それがきっと彼らの力になるだろうさ」
 丈太郎はそう言ってお雪の頭を撫でると、手を繋いだまま自分の布団に入った。再び訪れた沈黙の中で様々な事を考えては、よくない考えを消そうとしてみる。
 どれだけ考えようと彼らの運命だ、他人にはどうする事も出来ない。それはもう本人達の意志の強さと運に任せるしかない。
 自分の命の危険をくぐり抜けてこそ、他人の命を思いやる心の余裕が出来るのかと皮肉な事を思いながら、丈太郎はお雪の小さな手を握り直した。

「気後れしたらわたしのもとにおいで」のその後

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