以前、何も言わずに出かけた時、寝てても起こして声くらいかけろ、と九郎兵衛に怒られた事があった。言うのはいいが実際に起こせば酷く機嫌が悪く厄介だというのを史郎は知っている。だが二度も同じ事で怒られるのは面倒だなと思い、彼は九郎兵衛の腕を一度だけ叩いた。そして早口で言い残す。
「墓参りに行って来る。近えからすぐ戻る」
「朝早くから御苦労なこったな、おれはまだ寝てるぞ」
 眠そうな声だったが、機嫌が悪そうではなかった。すぐ返事が返ってきた事に驚きつつ、史郎はそそくさと部屋を後にしようとする。
(誰の墓かとも聞かねえのか。まあ、おれがくろの立場でも聞かねえだろうけど)
 まったく楽な関係でいいものだ、と史郎は思った。一味の仲間や女とならこうもあっさりとはいかない。
 墓参りは史郎にとって憂鬱なものだった。また色々と考え込んで随分と気分の悪い思いをするのではないかと思うと、正直今からでも行くのをやめたいところであった。我儘な子供のような考えを抱いている事に気付いて、史郎は一人苛立ちを持て余す。
 すると九郎兵衛が急に立ち上がって、がしがしと頭をかきながら窓を全開にした。
「雨のにおいがする。傘持ってった方が良くねえか?」
 そう言いながらくんくんと鼻をきかせて窓から空を見上げる九郎兵衛。雨のにおいがどんなものなのかはわからないが、晴れた空の隅に灰色の影が見えるのが史郎にもわかった。おれの天気予報は結構当たるんだぜ、と自慢気に差し出された傘を史郎は手で軽く押し返し、予測の仕方が犬みてえだ、と笑う。残念そうに傘を引っ込める九郎兵衛に見送られて、史郎は部屋から出て行った。
 早朝だからか静まり返った旅籠の廊下を歩きながら、一人ぼんやりと考える。九郎兵衛の雨の予測はよく当たるのだと。
(いっそ雷でも落ちれば、なんて罰当たりな事考えてんじゃねえよ、馬鹿が)
 ため息をつきながら玄関にしゃがみ込む。足袋を履いて、草履の紐を結んで、それをもう片方の足でも繰り返す。そんな僅かな時間でも考え事をせずにはいられない所が、自分の面倒な所だと史郎は思った。しかもその考え事の内容は殆どが答えが出ないものときている。当たり前だがこの癖で得をした事など今まで一度もない。どうしようもないのだ。
 思わず眉間に皺を寄せて、幾度となく抱いた自分への苛立ちを忘れ去るようにして、彼は玄関を飛び出した。

戻る