史郎の呻き声を聞いて、九郎兵衛は彼の背中を何度もさすってやった。桶に向かって苦しそうな声が吐き出される。
 普段からよく風邪をひいて喉を駄目にしてしまっていた史郎だったが、さすがに吐くほど体調を崩した事はない。九郎兵衛も鼻が弱かったが至って健康で、自分が今まで吐いた事も、また人が目の前で吐いた所も見た事がなかった。騒げば宿の者が来て「医者を呼ぶ」などと言い兼ねない為、二人とも落ち着いた振りをしていたが、複雑な心境だった。
 高熱で頭の中がぐちゃぐちゃになった史郎は、何かを考えれば考えるほど悪い方向に思考が働いて、いつも心の奥底に眠っていた不安は大きく膨れ上がっていた。口に出さない事だから誰かが歯止めをかけてくれる訳もなく、自分でもどうしようもない程に暗く重い気持ちになっている。
 一方ふらふらになった史郎をずっと見ていた九郎兵衛は、ただ背中をさすってやる事くらいしか出来なかった。いつもの史郎と違い殆ど話さないものだから、それがつまらなくもあり、不安でもあった。沈黙は苦ではないが、どうにも手持ち無沙汰な感じだった。
「食わなくていいのか」
「……食ったけど戻した」
 もう何もいらね、と顔をしかめる史郎。そう言われると無理に何か食べさせる訳にもいかず、やはり九郎兵衛は史郎の背中をさするくらいしかしてやる事がない。女ならばもう少し看病らしい事も出来たかな、とちらりと考えたが、自分以外が史郎の看病をしている所を想像すると何だか妙な気分になった。嫉妬と言うにも、少し違う気がする。
 同じ男の九郎兵衛から見ても史郎はいい男だ。だから女に人気がある事も、夜の相手に困らない事も知っている。今までそれをどうこう思った事は決してなかった。史郎の隣に居るのは自分でない方が良いとさえ、思っていたくらいだ。
 それなのに、今弱っている史郎の隣に居るべきは自分しかいないのだと九郎兵衛は自惚れている。何も出来ないが、誰よりも史郎の事をわかってやれるのは自分だと九郎兵衛は自負している。
「くろ、すまねえな。寒いから、もう寝る」
 熱のせいで赤くなった頬と、軽く閉じられた目を見て、九郎兵衛は史郎の頭にぽんぽんと手を置いた。もう十分頑張って熱とたたかっているのだろうが、やはり言わずにはいられなかったので、小さな声でがんばれとだけ告げた。
 再び布団に横になった史郎が抵抗しないのをいい事に、九郎兵衛はその背中に自分の背中をぴったりと合わせた。男が二人、しかもどちらも外側を向いている為九郎兵衛が若干布団からはみ出ている。しかし背中の暖かさだけで十分な気がして、目の前にあった自分の布団を一枚、史郎の方に掛けてやった。寒くないか、と声をかけると、史郎が頷いたのだろう、合わせた背中が少し揺れた。
「明日には元気になるといいな」
 聞こえるか聞こえないかの声でそう言ったが、返事はなかった。独り言でいい。考えている事をたまに口に出す事で、自分の事が史郎に伝わればいいと思う。
 だが体調が悪いなら、今すぐにでも二人別れてそれから医者を呼んでもらえばいい話だ。そんな当たり前の事に気付かない程二人の調子は狂ってはいないし、共通する大事な予定もない。それなのに何も言わないという事は、史郎も九郎兵衛と同じ気持ちなのだろう。
 静かに久しぶりの再会を惜しむ二人をよそに、確実に夜は深くなっていった。再び陽が昇った時には、全てが良い方向に進んでいると、彼らはそう信じている。

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