騒がしかった街の静けさが夜の訪れを告げ、その静寂は人の影さえも消してしまった。すっかり明かりが消え、風のにおいだけが残った夜の道を、二人は駆ける。
 太陽の代わりとして空にある月も星も、二人の影を作るには少々暗すぎた。しかし同じ水で生きて来た者にとっては、彼らの影はさぞ色濃く見える事であろう。木の影、山の中、どんなに黒々としていて身を隠すに適した場所であっても、目はその姿をしっかりと捕らえる。だからこそ今二人は共に行動出来ているのだが、同時に、それは二人が逃げなければならない理由にもなっていた。
「もういい、くろ、もういい」
「ああ、もう随分遠くまで来ちまったのか」
 息が切れる程走って、ようやく二人は足を止め辺りを見回す。先程までいた場所がよく見える、緩やかな坂道が続く丘の上に来ていた。
 二人とも一心不乱に走っていたが、考えなしでここに辿り着いた訳ではない。何日も前から二人だけで決めていた場所だった。ろくに周りがわからない山奥ではなく、見晴らしの良いこの丘を選んだのもわざとだった。
「こんな事一味の誰かにばれたら、殺されるかね」
「当然だ、犬猿同士の一味のおれたちが組むなんざ、頭が黙っちゃいねえよ」
 下っ端にだって合わせる顔がねえ、と史郎が続ける。わかりきった事をわざわざ口に出して、確かめるように答えた。辺りはまだ、静かだ。
 虎杖一味の史郎、片蔭一味の九郎兵衛、犬猿の仲と呼ばれる一味に反し二人の仲は良い。お互いをしろ、くろと二人しか使わないあだ名で呼び合い、隠れて会ったりもしていた。まるで逢引のようだが、二人はただ「同じ水で生きてきたから」と、少し大袈裟にそう思っていた。
 丘の上から江戸の街を見下ろす。明かりが少なく絶景とは言い難いが、冬のはじまり独特の風のにおいとよく合うようで、悪くないと九郎兵衛には思えた。
(静かなのも今だけだ)
 先程まで二人がいた場所――とある旅籠の一軒が片蔭一味によって今日、燃やされる事になっている。放火して慌てふためいている中に紛れて、その旅籠の裏にある庄屋に盗みに入るのだと聞いていた。
 勿論旅籠はとばっちりであるし、庄屋にだって何の罪もない。火事によって死者が出たとしても、盗みに入る事で庄屋が潰れたとしても、そんな事は一味にとってどうでもいいのだ。自分勝手で、しかしけじめには人一倍厳しい、そういうものが盗賊なのだと、九郎兵衛も思っている。
 ただ客観的に冷静に見てみると、なかなか惨い事をしているものだと、少し目を背けたくもなった。
「……あまり派手にやってくれるなよなあ」
「馬鹿、おめえの一味だろ。せめてしっかり見てろ」
 史郎は九郎兵衛の背中を叩いて、立ったまま江戸の街を見下ろしていた。虎杖一味はこんな酷え事しねえから他人事だろうよ、と九郎兵衛は文句を言いたくなったが、史郎の横顔が頼もしく何も言う事が出来なかった。
 やがて江戸の街に小さな火が灯り、人々の騒ぎ声と共にその火は大きく燃え上がっていった。近目な九郎兵衛にはよく見えないが、恐らく火を囲むようにして沢山の人々が集まっている。
 火は大きくなる一方で、旅籠から二軒三軒隣にまで燃え移った。その屋根の上に火消しの纏が上がる。放火の被害を受けたのは旅籠を含め五、六軒のようだった。
 九郎兵衛は苦い顔をしてその場に座り込んだ。史郎とここに来ていなければ、当然九郎兵衛だってこのつとめに加わっていた。今頃兄弟子は彼を探し回っている事だろう。明日帰れば頭にだって随分怒鳴られるだろうし、史郎といた事が知られれば指一本では済まないかもしれない。それでも九郎兵衛は、殺しに繋がるような事だけはしたくなかった。つとめの最中に誰かと居られるなら、隣は史郎がよかった。
「あっちは終わったみてえだな。おれたちもさっさとこれ山分けして、戻ろう」
 俯く九郎兵衛の前にどさりと金が置かれる。先程ここに来るまでに、片蔭一味より先に二人が庄屋から盗んできたものだ。結局こうして逃げてきても、後ろ暗い事をしているのに違いはない。
 丁度半分にした金を、九郎兵衛は手にとる。結構な大金だった為重いのは当たり前だが、それだけではないような気がしていた。腹の底にのしかかるような、心の臓を締め付けるような重さだった。
 ふと、思い出したように九郎兵衛が呟く。
「おれといる事が知れれば、いくらおめえを可愛がってる頭でも、きっと許しゃしねえだろ。それでもしろは、おれと組んでくれるんだな」
 出会ってから今まで、二人は顔を合わせれば当たり前のように隣にいた。組む、と言ったが、今日別れればまたお互い、何事もなかったかのように一味に戻ってゆく。深いようで、とても浅い関係だと言っていい。次いつ会うかも、どこにいるのかもわからない。それでも二人がお互いを見失う事がなかったのは、同じ水で生きてきたからというより、感覚的なものが大きかった。無意識に互いに対する気持ちもわかっていた。
 九郎兵衛よりも史郎の方がそれを理解していたのだろう、山分けした金を手にすると、迷いもなくはっきりと答えた。
「お互い様だ。同じだけのものを背負ってんだからな」
 史郎は少し笑うとまた真剣な顔に戻って、九郎兵衛の前に片膝を付いた。金を握った手を、同じく金を握ったままの九郎兵衛の手に重ね、まっすぐに視線を合わせる。きっと史郎は盗賊の中でも江戸の男の中でも、これ以上ない良い男なのだろうとぼんやり思いながら、彼の言う事を聞いていた。
「分かっててこんな事をしてんだ、おれたちは」
 長い時間をかけて、風に乗りここまで漂ってきた煙をようやく吸い込んで、今この時を身体中に刻み込むように、二人はしばらく目を閉じていた。

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